ジャーナリズム崩壊 (幻冬舎新書) ジャーナリズム崩壊/上杉隆 幻冬舎
日本にジャーナリズムは存在しない。これは極論であろうか?
この著者が体験したアメリカの経験に関していればそれは正解だ。ジャーナリスト一人一人の自律性、国家に対する位置、市民のメディアに対する意識。どれもこれも日本とは違う。日本のメディアは海外でいう通信社にあたる。つまりニュース、ドキュメント制作に近い。このことはぼくが建築メディアに感じている体質と同じだ。ドキュメントというのは批評的というよりむしろ記録的ということ。流れをそのまま反映する。ここでの流れとは客観的ではなくその主体者目線での流れ。つまり、メディア側からすれば依存体質。それはしかたのないことかもしれない。建築雑誌にしろ、新聞にしろ、その収入源は広告が50%は担っているだろう。大手新聞社ですら40%が広告収入だ。このようなビジネスモデルでは自律性が保てるわけがない。単なるマニフェストを印刷しているだけだ。資本主義社会における権力をもつのは企業であり、そこから生命維持の担保をもらってる以上、権力を監視し、真実を伝えることは困難だからだ。だからといって媒体の売れた収入だけでやっていこうにも無理がある。著者が警告するように新聞は意味がなくなるかもしれない。記者という仕事は残るかもしれないが、手段としての新聞には価値がなくなるのは目に見えている。ただでさえ何もしなくても、何も知らなくても生きていける時代であるのに、単なる情報の垂れ流しはネットには勝てない。一覧性を謳っても仕方ない。自分に意味のある情報だけでいいのだから。
ジャーナリズムは、一つの権力だ。大きな権力つまり国家であったり企業であったりを監視するための、その内側を伝える権力。その中の一つとして建築も権力であると思う。だから建築ジャーナリストには名刺一つで誰にでも会えるという資格がある。巷でにぎわっている建築の権力の議論、つまり自動生産される空間原理には、使用者などは受動的に使用するしかない。この場合、建築家も自動的に生産される空間を設計する人間も同じであるように思う。それを作り出す建築家がなぜそれを議論しているのかは少し疑問であるとも思えるが、批評性つまり建築ジャーナリズムの不在である以上仕方のないことなのかもしれない。さらにその建築界の中で創り出される建築ジャーナリズムなど、ジャーナリズムと言えるはずがない。一般の読者に対する、説明的な、作家を理解するためにメディアは成長しないといけないと思う。