アヴァンギャルド・チャイナ―〈中国当代美術〉二十年― @国立新美術館
1980年から2000年の中国の急発展した美術の動向として評価された美術家から若手までを紹介する展覧会。
中華人民共和国の封建的文化、資本主義文化を批判し、新しく社会主義文化を創生しようという文化大革命が終了し、中国の美術界は文化的鎖国が解放され一気に海外の美術を受容した。その中で急成長した美術界における重要人物を作品とともに紹介している。
大きく印象に残ったのは、入ってくる世界の現代美術、そして中国を含む世界に対する批評性、そして極端ともいえる表現を駆使したシニカル・リアリズム。どれも過剰なまでに表現を高めた作品だ。しかしこれは現代の中国や世界の文化の中であればこそ理解でき、逆説的に現代の状況をどれもが物語っている。
王広義の『唯物主義者』は労働者のような格好をした男の腕から手にかけてを極度に誇張して表現している彫刻作品。素材も土のような色をしており、いかにも労働者一人の人間としての尊厳を訴えるような作品だ。このことは張�の『池の水位を上げる』という映像作品で池にたくさんの人が入って行くことと同じような訴えかけをしているようにも思える。人口が過剰なほど膨大な中国においては、人は一人一人というよりもボリュームとして労働力と思われがちなのではないだろうか。それを権力に対し訴えた作品であるといえる。

黄永�の『ダヴィデ』、『『中国絵画史』と『現代絵画簡史』を洗濯機で2分間攪拌した』は、現代美術のコンテクストともいえる権威ある作品や書物に手を加えることで、世界の現代美術界に対し、自己の立場を表明した作品だ。美術館の前で作品を燃やすパフォーマンスを記録したドキュメント映像も同様のことを感じたと同時に、美術と作家の立場などを感じさせる作品だ。
もう一つの大きな作品の傾向はシニカル・リアリズム。「理想主義やヒロイズム、政治性から距離をとり傍観する態度」であるこの言葉は、張暁剛の『血縁』の連作や方力鈞の作品、映像作品としてパフォーマンスを見せる馬六明に異常なほどに表現されている。
昔の家族写真を思い出させるようなすこし恐怖を覚える人物画を描く張暁剛、不気味な笑みをする中年の男が何人も同じ恰好でたってこちらを見ている方力鈞の絵画、自ら丸裸で鎖に巻かれ吊られながら血を抜くや公衆便所で虫にたかられながらもじっと座っている映像作品は前進し続ける中での古い記憶、複製という伝統に対する嘲笑、そして自らを単なる物体に近づけるような行為であり、世界の中でも大きな成長をみせる中国経済に対する静かな批評である。
この他にもアニメのようなコミカルな動きをする犬の恰好をした若者が動き回る作品や、車椅子に乗った老人が果てもなくホワイトキューブの中を動き回っている作品など、「アヴァンギャルド」というだけの作品が並ぶ。
特に時代に対しての批評性を帯びるこのような作品群は、わかりやすい。しかし一方で「芸術」の真髄にある(勝手におもってるだけだが)感動というものが内からわきでてこない。それはアーティスト自身が、外に対する斥力をエネルギーにしているからではないだろうか。素晴らしい作品にはアーティスト自身の内から出るエネルギーを感じる。世界的な評価が少し気になるところだ。