ある世界では当たり前のことが他のところでは当たり前でない事、ありますよね。
当たり前のことが実は当たり前でないと思う事、大事だと思います。
先日聞いた企業の説明で、「おもしろがれ」というフレーズを聞きました。なんでもおもしろがれ。これは前述のことと関係あると思います。ある事を当たり前と思っていたら、何も始まりません。

今日は講義の発表のために国立に行ってきました。
    

講義の目的は都市の住環境を評価することです。その対象としてぼくたちは国立を選んだわけです。なぜ国立かというと、ここの市民は土地、街に対して意識が高く、開発業者に対して裁判を起こすくらいだからです。特に、一橋大学前の大学通はその個性が表れていて、ここの並木以上の建物をつくらないという不文律があったくらいです。実際に行ってみると、春になると桜が咲くという大きな木の下にベンチが並び、十分な歩道の幅がありました。それに加えて自転車専用の道路が整備され、歩いていてとても気持ちのいい歩道でした。ゴミもあまり落ちておらず、落ち葉を年配の方々が拾い集めているところも見ました。こんなきれいな状態に保つというのは、住民一人一人の意識が高くないとできない事だと思います。このような意識の高さが、裁判には如実に表れ、第一審ではついに景観を理由に取り壊しをさせるという命令が出ました。通常、このような場合には賠償金という形で決着がつくのですが、お金には変えられない価値を、大学通りを守ってきた住民が自分たちの景観を守ったのです。
なぜ、ここの住民はここまで意識が高いのでしょうか。国立では、1934年の「国立会」という町内会による桜並木の植樹、環境向上のための自警団の組織などの活動から始まり、昔から多くの景観を守るための住民運動が行われてきました。50年代には歓楽街化しつつある中で、教育上好ましくないとされる業種の進出を規制する文教地区への指定がなされました。
歩道橋一つにしても結果的には建設されてしまいましたが住民は猛反対をしました。1970年の事です。
さらに1989年には容積率、つまり敷地の面積に対する延べ床面積の率が緩和され、高層のマンションの計画が次々と持ち上がった事に対しても住民は東京都と国立市を相手に裁判を起こしました。その運動は結果的に景観形成条例という条例を作るところまで発展したのです。そして99年には、景観裁判の原告だった人が現市長を破って当選、市とは和解する事になった。
このような住民の意識が高い理由は、美しい桜並木とその周辺の落ち着いた街並を維持していきたいというものでしょう。一橋大学をはじめ高等学校なども周辺には多く、この環境を維持していくことはとても有意義な事だと思います。
それに加え、大事な事は放っておいたら当たり前のようにどうにでもなってしまう街や都市を当たり前だと思わず、自分たちで守っていく事を常にここの住人たちはしてきたということです。それがあるからこそ70年という蓄積ができ、結果的には子どもたちも誇る事のできる街を作る事ができたといっても過言ではないと思います。
当たり前のことをただ当たり前と受け流し、関与しなければ、相手や周囲の環境が自分と関係なく流れていくだけです。