バスのチケットをキャンセルし、別日程のものをもらうためにぼくは横浜へ行った。数日前の冬とは思えない暖かさの昼下がりの気温は微塵もなく、自転車で行く事を躊躇してしまいそうなほどの寒さだった。しかしぼくはバスに乗るのも面倒で、さらにもう自転車の前に来てしまっている事実と往復にかかる少々の小銭のために自転車に乗った。
年末で夕刻前の国道沿いにはいつもより多くの人たちがいた。買い物帰りの女の人や小学生、スーツを着たサラリーマン。どの人間の顔も一瞬見た後は抽象的な顔になり、顔に当たる冷たい冷気と相まってか、自分がキリコの世界に生きている事、もしくはそのように見えるほど自分の感性が落ちてしまったような感覚になった。
しかしその中でも、シャッターを下ろした小さな商店の前に直立し、えらく集中して細かい作業をしている中年の男ははっきりと覚えている。ガラスのショーウインドに貼られたステッカーのようなものしか最近は目にしていないので、その姿は印象的だった。細かい筆で懸命に店名を描いていた姿を見たのは一瞬だったが、パソコンの前ばかりでビジネスモデルやらジャーナリズムやら上位の概念の机上の空論を頭に描くことから少し成長してきたかのように思える自分にとっては新鮮で、かつ現実に確実に着地した瞬間だった。最初にいった研究室の調査で年配の方が言っていた大卒はみんな管理する側の仕事にしかつかないという言葉が頭をよぎる。さらに数年前に井筒監督が芸人ふかわりょうに向けて言った慶應を出た芸人など聞いた事がないという言葉。
この世に現場以外で生まれる感動などあるだろうか。ふとぼくは、人としての豊かさについて考え始めた。
建物の例でいえば設計という上位の概念の下に建設はある。さらにその上には表象として提示するメディアや実際的な経営、資本主義の世界がある。別に格差社会についての意見を述べたい訳ではない。もちろん、上に行けば行くほど給料はいいだろうし、世界を回している中心はここにある。いくら政府が金を撒いても、根本的な解決にはならない。このヒエラルキーがある限り、格差も続く。技巧性、つまりテクトニクスの概念など単なるノスタルジーに過ぎず、全て資本の上にある本質とはかけ離れたものだ。そこでテクトニクスをもちつつ、資本に組み込むというのは至難の技だ。漫才においてはその本質に人々の笑いがある客商売であることから直結しているようにもみえるが、音楽家、建築家など基本的には自律した芸術というものは資本主義には馴染まない。ポップミュージシャンなどどこまで本気かわからない。こちらの感覚不能状態なのかもしれないが。
物質的な豊かさを越え、精神的な豊かさを求めるには、やはり人と人、人と物が直結しなければならないと思う。この時代に生きる僕らがパソコン画面に当たり前の感覚を示し無駄を排除したようなデザインを好む傾向にあって、単なる物質の豊かさに翻弄される世の中。