村野藤吾建築設計図展 アンビルト・ムラノ @京都工芸繊維大学・美術工芸資料館

建築家・村野藤吾は、日本に多くの作品を残している。しかし、経済の情勢等の変化で建設が中止になったものも多数ある。アンビルトというと建築家がクライアント相手にではなく独自に提案したものを思い浮かべていたが、ここに展示されているのはほとんど計画が具体的なところまで進んでいるものである。アンビルトという形而上的で優美な言葉で表現されるノスタルジアな構想ではなく、地に足をつけた構想であるところが建築家・村野藤吾らしい。それ故にどれにも現実的な価値が見いだせるのにも関わらず、実物が体験する事ができないのが非常に残念である。

戦前の作品から戦後はバブル時期の作品までが出展されていた。
大きな時代をまたぐ作品群であるため、氏の一貫した価値観、つまりその時代背景と『1%のムラノ』を十分に反映したものであるため、村野藤吾自体の時代吸収のうまさをみることのできた展覧会ともいえる。

まず、ダンスホール(1933)や大阪メトロポリタンホテル(1933)、西川商店(1937)などの商業施設と客船内のインテリアデザインの橿原丸(1940)である。かの有名な「新建築問題」において初めて建築メディア上で商業主義への傾倒が批判されるが、それ以前にも多くのコマースシャルなプロジェクトを受注していたことが窺える。ここでもやはり入念なディテールのスタディは行われており、バロック的とまでは言わないまでもモノとしての建築まで根を下ろしたような、ヒューマンな構想である。
他に挙げられる代表的な例では、東京都庁舎(1952)がある。丹下健三が勝者となったこのコンペは敗戦後日本が復旧に向けて前進している時期である。その時期であることとそれ以前の作品を比較してみると、日本でもモビリティの成長が建築自体を変えていることがわかる。そこで氏は曲線を自在に操り、意匠としてでなく機能として、時代的な価値を排除することなく建築に受け入れ、取り込んでいる。モビリティの発展を自在に取り込んでいる姿勢は後の文京学園仁愛講堂(1984)にも表れている。この計画では同じフロアレベルでのデザインにも関わらず自動車と人の関係性をうまく統合した新しい建築のモデルを提示している。