至極当たり前のことであるが、人間にはバックグラウンドも、それぞれの事情もだくさん抱えて生きている。それがない人間などいやしない。ある意味で生きていること自体が事情を抱える最大の原因だからだ。


友人と新宿で久しぶりに会った。彼女は某ゼネコンの設計部で去年の四月から働いている。会おう会おうとは言っていたがお互いが東京に来てからまだ一度しか会えていなかった。
彼女とは大学の四年の卒業設計の時点で仲良くなった。卒業設計という大学生の中ではここまで悩ませる課題を、しかも卒業と引き換えに出す学科など建築学科やクリエイティブ、アート系くらいだろう。彼女はとても美的なセンスがよく、絵もかなりうまい。デザインやアート系のことなら彼女は大学の中でもピカイチのセンスの持ち主だっただろう。そんな彼女がなぜ工学系の建築学科にいるのかが不思議で仕方なかったが、どうやら建築学科の学生の大半が理由として挙げる卒業後の就職という一般的な理由だったように思う。
卒業設計の時期に彼女は、その美的センスを武器に工学系卒業設計の典型である構造や設備など実際的な「建物的」思考ではなく、アートに近い建築の構想をしていた。建築的な図面を描くことと引き換えに、精神的なストレスはなかり大きかったと思う。その過程でぼくは、一人の相談者として彼女と向き合い、意見交換をしてきた。彼女の作品は彼女そのものと言っていくらい彼女の全てが投入されていた。その過程にいたのだから、ある程度彼女のバックグラウンドは理解していたし、彼女の向いている方向もよくわかっていたつもりだ。しかし、いろいろな条件などから建設という社会に出ることを決めていた彼女がこれから社会に出るということに自他ともに危惧を覚えていたのが昨日のようだ。
大学を卒業した彼女は入学前の思惑通り建設会社の、しかも建築の学生の中では優秀者しか行くことのできない設計部に就職した。多くの新入社員がそうであるのに漏れず、彼女はひどく苦労をしているようだ。そこにぼくが会話をして言えることは一般論であればいくらでも言えるのだが、やはり家庭的な問題など個人的悩みも人一倍多い彼女にはシンプルな言葉は報道される自分には全く関係ない出来事といっしょで何の価値もない。
それは多くの人についてもそうだろう。生活も、仕事も、何もかもそう出来ている。シンプルな言葉が簡単に届くはずもない。多くのことを同時に背負っているのだから。

それは、仕事の上でも顕著に表れる。新宿に行く前、三田で長谷工コーポレーション会社説明会にいったのだが、設計者、施工管理者の仕事をしている人に聞いても意味がないことで都市の表層は作られてるということがよくわかった。
長谷工は、いわずもがな名の知れたマンションを専門とするゼネコンだ。マンションの代名詞ともいえるこの企業は多くの集合住宅を建設し、タワーマンションという建物を普及させてきた。しかし一般的なゼネコンと違い、独自の不動産会社をもつことで一貫した事業としており、根から花まで手がけている企業と言える。
設計者の方が質問に答えてくれるということなので、企業が独自に持つ設計規準、納まりなどの企業の中での制約というのを聞いてみた。やはりサッシの納まりなど最初ぶつかった壁はここだったという。そしておそらくアトリエ系などを志望する学生の嫌がる理由になる大きなことである。しかも、マンションというビルディングタイプを想像してもわかるとおり、そのヴォリュームすらも画一的なものになりかねない。設計者の意図など、設計した人くらいしかわからないだろう。


ここに、建築家の都市を語るリアリティの欠如がある。人がそうであるように都市もさまざまな事情をかかえている。特に、不動産という金融資本主義的な要素がかなり多い。経済を含む多角的な検証がなければ、それをデザインどうこう、タワーマンションどうこう言ったとしても、それに加担したとくらいしかいいようがない。都市が投資の対象になっていることがまずよくないが、それはそれで諦めるべきなのかもしれない。それよりも、資本の権力よりも人自体の権力がまだ振るえる場所でないと、建築という概念自体が通用しない。