塩狩峠 (新潮文庫) 塩狩峠三浦綾子 新潮文庫
著者がキリスト教だということは最初に少し見ただけであったが、読み進めていると聖書を読んだ事のない人への解説も込めた小説なのではないかという気がしてくる。時代背景もあって最初はキリスト教に対して疑いもあった主人公だが、その悩ましい思考の過程に、自分と照らし合わせたときの答えが綴られているようでもあるからだ。ここまで自分の深層と直結して考えさせられながら読み進んだ小説も久しぶりだ。
そこには、普段普通に生活している中での選択、つまりある種の葛藤の残る選択をする場合での心の広さがある。キリスト教信者の人からすれば当たり前のことであろうが、自分を忌み嫌っている者をも許容し、その時の感情や利己に陥らず全てを見据えたような考え方をしている。それが最終的には三堀の信頼までも生む結果になる。否定するのでなく肯定することで生まれることもあるということだろうか。
物語中には多くの意味ある言葉が詰まっている。信夫と吉川の一連の会話には、優劣なく新鮮な感情が芽生える。多様化を認める社会になりつつあるとしても、そこに何の意味があるのかがわからなければ豊かな社会になり得ない。そのためには、この小説のように人の存在の意味、それがキリスト教の布教のためでなくともよい、はっと気づかせてくれるような書物がまだまだこの世には少ないように思える。
それが最終的にはキリスト教の教えであるかどうかはともかくとしても、犠牲というものほど美しく、尊いものは他にはないのではないだろうか。様々な皮肉や中傷を勝手に感じてしまう世の中だからこそ本当に真のことを肯定する事は難しいと思う。素直にいいこととして受け取る人もいれば何であろうと偽善だと感じてしまう人もいるだろう。それは他に信じるものがなく、どこにも頼れない人がその場しのぎで自分を庇おうと、守ろうとしてしまう結果のようにも感じる。信じたとしても騙されるという結果になってしまう可能性のあるこの世の中が本当に情けない。自分を犠牲にしてまで他の誰かを守るという精神というのは言うは易し、行うは難しであるが、信夫のようにいつもこのようにして他人に命を捧げる事ができるのかと自問自答していたからこそ最終的に自分を犠牲にして、これからの最大の幸福を犠牲にできたのだと思う。