知識、興味、行動と、商品として「頭脳」で完結できる価値があるものとしてはいいとして、人の心にまで響き、心を満たす役割はいかがなものか。それは、言葉によって全てを形骸化し、相対化できるようにも思える。そうやって、人の重み、尊厳という言葉を利用しながらも目の前に、躯を通してレールを敷くということを怠りながらも、生きるということは可能である。そしてそれを可能にさせてきた心の変化しない根幹に、決定的な要素があるのではないかと思う。
一体何のために、何が向こう側にはあるというのか。一人善がりな言葉の果てには孤独という状況しかないのか。冒頭の疑問が芽生えた時点で、その事実は既成のものとなっているのに。そこにはもう、何も存在していないのか?失われているものを補完するためには何ができるのか?
と言ってみたところで、劣悪的な考えよりも正直に生き、自然に表現していくのが正しいのだろう。「書く」という行為とは矛盾しているが、それが人間だ。そして、奇跡の重なりを信じているのだから。