「伝える」ということはどういうことだろうか.
自分が今やっている学術論文というものは,そこらのおばちゃんにもわからないといけないくらい客観的に書かなければならない.しかし,一般的には構成なども含めて論文というのは難しいものだという認識がある.
学術的な成熟と,世間一般での成熟は当たり前だが違う.しかし,どこかに結節点がなければ,私がやっているような建築芸術のようなものは一般性を持ち得ない.広まったとしてもわかりやすい形になってどこか精錬されていない形になってしまう.それがもし,結節点があったとしても単なる押しつけとして受け取られがちになる.
それはそのためのメディアである建築雑誌,または一般誌においての建築の扱いからよくわかる.そこには,お互いの土壌が共有できるまで議論が必要になる.ある一定の集団があったとして,その内輪の話を一般化しようとすると,そこにはある程度の抽象度が必要になる.ここで,先鋭化された言葉の連鎖はなくなり,本質が伝わる可能性も少なくなる.そして,「一般的」といまなっていることからどれか引っかかるように,ということをくり返しながら次の一般化が始まる.
ここでの努力というのはどこまでなされてきただろうか.本質を考えるには専門的な言葉は必要である.しかしそれを融和する必要はない.言葉以外にも伝える手段,そして態度が大切なのだろう.
これから,その手段,そして態度を自分という「人間全体で」学んでいかなければならない.