横浜建築都市学 吉原直樹 「創発的なコミュニティ形成の可能性と課題」
香港・マカオ・マレーシア・インドネシアなど,アジア圏でのコミュニティ社会形成をフィールドワークし続けて来た吉原直樹氏の講演.
特にジャカルタの町内会的なもの,バリの「バンジャール」という地域住民組織にはアメリカ的「ブロックコミュニティ」とは違うものを感じているという.それは位相的秩序,横のつながりであり,元はイギリスのガバナンス論であるが,ガバメントからガバナンスへという主題をアジア的コンテクストから探っている.コミュニティ論再発の必要性があるというのが氏の問題意識である.

前段として,コミュニティ論の台頭の整理から講演は始まった.
コミュニティ論の台頭はグローバリズムスタディーズとコミュニティスタディーズの対立からはじまったのではないかとする.そのなかでもコミュニタリアン的議論が多く,独自性,日本回帰が叫ばれるのはなぜか.それは一体どこにいて,どこに行こうとするのか,グローバリゼーションの中でどの立ち位置を考えているのではないか,と.グローバリゼーションのひずみが大きくなる中でコミュニティ論がでてくる.そしてコミュニタリアンは弱い者,リバタリアンは強い者という構図の中で,家族,学校,地域社会の中でコミュニティが万能薬のように生まれている.

第2に,そのコミュニティ論のフロンティアはどういう研究なのか.
金子郁容「コミュニティソリューション」(1999)で,マーケットソリューションの限界からコミュニティソリューションへという議論がある.また,自身が行った研究において,東北の60の自治体へのアンケートの中でガバナンスが大事という回答が挙げられた.
ではガバナンスとは何なのか.
氏は,ガバナンスを「公共団体,企業,NPOなどの諸団体が争点を巡って織りなす組み合わせの重層的総体」であり,構成要素が交差するところに成立する状況依存的な状態,「制度」そのものではなく「制度設計の思想」とする.縦割りから横割りへ,統合(インテグレーション)から節合(アーティキュエーション)あくまでも諸団体の特性を生かしながらネットワーク状につながる.これから日本では,地域資源を反映したイニシアティブの確立が必要であり,ガバナンスを受け入れる文化,社会構造は議論されていない.ヨーロッパから入ってくるが,日本での咀嚼のされ方,折り合い方が自体が議論されていない.

ここからが氏の本題である,イギリスのガバナンスの原構造は日本,アジアにはないのか,という議論.
それを氏は地縁にみているが,「選べない縁」として上野千鶴子氏は批判している.そうではなく伸縮自在なのではないか,固定的で線形ではない.創られては壊され,再び形象化,生成されている.「創発性」と「内発性」がキーワードとして挙げられるが,両者の相同点は,住む(大地を領有)=根ざすことである.逆に両者の明確な違いは内発性の住むこと=閉じた関係性であり,歴史にがんじがらめなのに対して,創発性は囲むことに回収されないことである.
地縁は近代主義的には選べない縁として批判されてきたが,原構造として解釈できる.鎮守,宇治の神は場所の神が基礎にあり,地縁は公と私の間にある.公私が分かれない 位相的共同性であり,「住まう」領域がバナキュラーと折り合いながら囲むことに回収されていかないのである.
しかし,不幸な歴史として宇治神信仰を国家が掌握し,地縁が選べなくなった.その中で現代的な「地域性」の方向として,祭がある.間の存立を可能とする状況に組成され,大きな審級につながる間である.また,「集合意識」は町内会は金持ち,職業,など異質なものが集まっているのが特徴的である.これはアメリカなどでは全く違うコミュニティである.創発性の原構造で近代的な形態である町内会であるが,文化からの切り離しがあったのをガバナンスのための再埋込のためのキーワードはボトムアップ,外に開かれるということになろうか.


次に山本理顕氏から,地域社会圏についてのプレゼン.
原研でのプリミティブな集落調査でどこまでが住宅かがわからない,住宅は一様ではないということを認識したという.
一般的には共同体内の共同体におり,住宅は大きな共同体と小さな家族の調停役である.床の間と囲炉裏端など住宅の中に存在する装置は,どちらに属しているか,大か小かはっきりさせる.つまり.住宅内に大きな共同体に属している者を受け入れる場所がある.
ヨーロッパでは,1919年,ワイマール憲法以来,一民族一国家に作り直されたことを,1924年のL.ヒルベルザイマー,ハイライズシティのドローイングをみせつつ説明.1つの住戸に1つの家族が収められ,2つの関係の中で多様だったものが標準化されていった.
労働者の収容を目的にしていた標準の住宅が家族を標準化していったのである.住宅の外に地縁がない結果,鉄の扉で閉じられてしまった.
日本では1955年の公団発足以後標準化が進められた.自足性,自立単位,再生産が近代的家族が集住の背景にはある.
ヨーロッパでは1922年以降,1929年のCIAM最小限住宅,1933年,CIAMアテネ憲章における光,緑=健康な建築が目指された.ここで同年,ナチスが政権をとり,健康な国民をつくることが掲げられている.
この現状をもって,一家族一住宅から地縁を復興するのは不可能なのではないか.パッケージ化され,自分の内側にしか興味がなく,東京の今の風景が結果として表れているのである.4人に1人が高齢者,出生率1.31% 東京での世帯構成は1人が42.5%という現状で,どうするべきか,吉原氏に質問が向けられた.


吉原氏はニュータウン設計における決定的な間違いがあるのではないかという.そこで「病老死」が抜けていたのではないか,と.DK住宅には影がなく,家事すらも明るみに出る.ジェンダフリーの住宅の必要性がある.
対して山本氏も儀式がアウトソーシングされ,出産,死など,一住宅一家族の中でできることが限界は見えており,自足性,孤独死などが一住宅一家族の限界の顕在化であるとする.国家運営などインフラと新しい人間像の必要性があり,かつての地縁社会ではなく現代的な地縁社会をどう考えるかがこれからの課題である.1つの住宅の新しい形をどうみつけ,生活者にどう貢献できるか.保育園など擬似的な共同体を今までつくってきており,一家族では不可能,崩壊しているのである.
吉原氏はグローバリズムを考えるべきではないか,という.いやがおうにも他者と交わる,境界があいまいであるからだ.コミュニタリアンの問題は根本がハイデガーであること 囲いをつくることだけではなくて1つでは表象されないことを自覚するべきである.
また,多層ネットワークは様々な家族形態結婚しない女性への圧力になるのではないかと山本氏に問いかける.
山本氏はホモセクシャルでも家族を演じなければならないのは,一家族一住宅が背景にあるのではないかという.住まうとは中間領域をどう捉えるかであって,家族を国家に認定してもらうのではない.関係性としての家族を考え,他者がどのように中間に入るかを考えなければならない.
ここで横浜市立大学の鈴木氏から町内会は境界をつくる,しかしマンションの住民は入らない.テーマ性をもった交流,子育てなどが分節の可能性があるのではないかと意見.
吉原氏は町内会は衰退,しかし地縁をひきずっている.マンションの管理組合は町内会に否定的地権者などいろいろいる.町内会がどういう資源をもっているか自己認識し,テーマ型組織の交流によって地縁が復興できるのでは?地域的な課題として,新しい資源を手に入れていくべきでは?
山本氏は建築は仮説の上に立つが実際にできるとわかる一家族ではばらつきがありすぎる.400人単位ではどのくらい効率的なものができるかを考えていると大学院生と考えているという.
吉原氏は最後に,そのその実験というナラティブ/物語論で,1つの物語絶えずもう1つの物語をつくる,実験=物語であり,意図せざる結果をフィードバックしていくことが大事と語った.

都市社会学 (有斐閣ブックス)

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