・d-labo 長尾真×濱野智史「図書館は見えなくなるか?データベースからアーキテクチャへ」4弾「これからの知」 @東京ミッドタウン7F

ちなみに、一回目は複雑系の池上高志氏、二回目には翻訳などをしている山形浩生氏。行かなかったのが今更だいぶ悔やまれる。
講演の主題は「知」についてである。図書館は知のアーカイブを担うが、知のありようそのものが動いている状況で、図書館はどのように変化していくべきか。
まず 国立国会図書館館長、情報工学者、長尾真氏が話す。長尾氏の時代はネット、図書館はない。本すら十分にな買った中で問題解決には知識を集めてもどうしようもなく、深く考えるということになる。しかし、近年情報がふんだんにある中で考えることをしなくなった。知識の累積のなかには直面する問題の答えがどこかにある。考えるより探す方が楽な時代になってしまった。
自分たちの場合、基本的な定理から証明していっていた。1日2日かけて鶴亀算の解答が思い浮かぶという経験があったという。今は探せば必ずあり、それを見た方が早い。ある意味で非常に嘆かわしい、と。図書館が全部の本を所有し、提供する。しかしどこに解答が載っているかまでは図書館は提供できない。電子図書館が実現するとそこまでいくが、それは本当にいいことなのか。知識の体系化は必要である。ただし知りたい人は同じ問題でもそれぞれの観点がある。これからは利用する個人にとって上手い形で知識の体系がみせられる、ダイナミックに変われるようにしなければならないと展望する。
続けて,利用者にとっては便利。だが、それでは満足できなくて考えなければならないことが出てくることを指摘する。現代の場面場面は歴史にはない答えが要求される。それを自覚しながら図書館を活用していかなければならない。
知識と知の違いとして、「知識」とは学問的な体系であり、誰がいつ見ても同じ。一方で「知」はそれを含みながら場面場面、価値観によって変わってくる.図書館からいかに「知」を引き出せるようにするかが問題である、という。
対して、濱野氏が感想を述べる。濱野氏は29歳であるが、最近はググってばかりと自分を戒める。しかしネットは大学から利用しているのであり、それまでは図書館っ子だったという。都立図書館は15歳からしか入れなかったが、15歳になった途端に入り浸るように。
アーキテクチャの生態系という著書は社会学的というよりもネット上のコミュニティなどの仮想的社会を研究したものである。しかし、自然科学に比べると方法論が明確ではなく、ネットの研究もどういう方法論があるか、方法論をつくりながらこれを書いたという。法則の存在しない、構造化理論がない。例えばこれをここで売ればうれる、という知であれば、社会現象の場合、多くの人が模倣して消える。つまり、再帰性であり、社会現象の法則の発見は賞味期限が発生してしまう。そういうように社会学はずっと迷走してきたという。中でも、主観として解釈と統計法則に分かれる。歴史を踏まえた上で技術決定論(技術が社会を変える、技術は社会から独立している)と社会構築論(社会が技術を変える、技術は社会に埋め込まれている)があるが、濱野氏は両方ともイエスといえる、という。ブログやツイッターで変わることもある。大きなサービスは日本人向けに改変し、普及していく。その説明がアーキテクチャの生態系マップである。アプリケーションの積み重ね、サービスの追加、ウェブサービスの発展、ネットと自分たちのビジュアライズしたものは今までなかったのではないか、という。
李氏は両者が出席した先日のウェブ学会を引き合いに出し,これからの社会を考えているのかかを問うた。
長尾氏はウェブ学会は世界のトップを行く議論であり、1991年に発表した「情報社会の生態学」を執筆していたことを話した.情報が生まれて発展し、どう成熟、衰退するかを研究をしなければならないと10数年前から考えていたということになる。しかし、社会学の基礎的トレーニングが必要.なので中断という形になってしまったという。
理学系でいうと場の理論アインシュタインなど、場のつくられ方が技術によってうまれて、そこで何が起きるかは場のありようで決定する。同じような場でも民族などで変わってくる。知のありようも場の設定(ブログのメカニズムなど)で社会の人たちがどう使い,知をつくっていくか.今後への期待があると語った.
濱野氏は自己紹介を兼ねて思想地図の「メタデータ論」、著書の「アーキテクチャの生態系」を紹介。
今の場の理論アーキテクチャは「場の量子論」であり、ダイナミズムの働きのどこに注目すべきかに対し,ウェブサービスの設計の仕方にキーがあるのではないかという。
思想地図vol.2の「メタデータ論」では、膨大なデータがあふれているのをどう構造化していくかを模索している。ワインバーガーの「ネットはいかに知の秩序を変えるか?」において、著者は整理の三段階を以下のように整理している。 
 1、日常の整理
 2、(整理対象が膨大)物理空間の体系か,ルートのメタデータを整理、図書館10進法
 3、(ネット時代)両方情報空間にある場合、ソーシャルブックマークの「タグ」システム
フォークソノミー(民族)からフラクソノミー(流転)へと移行しているというのである。
現代的には,めちゃくちゃな分類がニコニコ動画にある。それのおかげで活発なクリエイティブが発生する。中でも分類システムを管理するシステムのアーキテクチャが他とは違う,というのが鍵で、
 1、タグそのものが自然淘汰できる。勝手にできる。他の人が消せる。 
 2、チャットに似てる タグゾーンがチャットゾーンに化す タグロック タグの進化淘汰
 3、アクセスでタグが違う。かってに違う解釈での見方が発散していく。
つまり、今まであったトップダウンボトムアップの流転がフラクソノミーである。
ニコ動を知らない長尾氏に濱野氏が実際に見せて説明.以下がその動画.
http://www.nicovideo.jp/watch/sm3015373
ここで休憩に入る。休憩中に、絶版だった長尾氏の著書である「電子図書館」の再販決定が李氏から通告される。出版界と図書館がwin-winになるにはどういうビジネスモデルが必要といったことも書かれているという。
その後、集合知についての議論へ。
濱野氏はここ10年くらいの特徴としては,進化,淘汰が大事なのでは、と考えている。科学哲学の退化(カール・ポパー反証可能性を経て実在的にダーウィン的に進化していく。淘汰が起きる知のあり方をアーキテクチャ上で今、展開しているのではないか、さらにメタデータの知のあり方に言及したからこそ成功したのでは。また、今の集合知の状況は進化論的アプローチが進化になっているのでは。
それに対し、長尾氏。カオスの中から知を絞り出す、集合の世界からでてくるものであって、個人からは出て来ない.どういう深みをもっているかはわからないが、知識というのは集合的展開の知識とバックの知識、例えばレヴィ・ストロースの「構造」がどこまで肉薄していけるか。できる可能性はある。知の構造化、そういうことは行われているのか?と濱野氏に質問.
それに応える形で濱野氏は知という点ではわからないが、今までは人が主体で知を生み出していたが,これからはメタデータの次元の方がプレゼンスを獲得していく。レヴィ・ストロースは一人ニコ動であり、融合していく可能性がある.ウェブ学会でも可視化はあるが、ビジュアライズで終わっている.膨大な集積を構造化できるのだから、これから人文的な研究をやっていけるのではないか、と。
ウィキは多様な項目があるが、辞書的にいうと分野分野で均等に説明がない.そういう概念変化が時間でどうしてきたか、記述がなされなければならない。
李氏は、ウィキペディアは時間構造がリニアでしかないが、ニコ動の場合、ベースにリニアにありながら、関わる人の関わり方によってリニアではない構造をもつ。それが生態的進化につながっているのではないかと提起.多次元空間として捉える必要がある。
濱野氏はサイバーの肥大化でリアルと遊離していくか、という問いに対して、「AR」「世界カメラ」などを例に挙げ,必ずしもすべてが遊離していくわけではないと説明。リアルだから全てが収束していくわけではないが、解釈がねじ曲げられている場合、目撃している現状が現実性が多次元性になる可能性があり,現実という価値はどうなっていくのかは倫理的には注意すべきであると考えている.コミュニケーションによって相互理解などは健全であると。
集合知に戻すと、フーコーの知の考古学では、知はある種の権力を批判するためには同じ土俵ではなく,その時代の知を違うアプローチの読み取りが必要であるといっていて、バラバラに霧きざまらなければいけない。それと同じようなネットサービスの現実がやってしまっている。そのときにどう知を体系化するのか。
それに対し、長尾氏はフーコーの考え方だと、知は人にとって何かと問うと,ゲーム以上でなくなるのではないか。生きている上でどういうものであるべきか。好きなように遊ぶというのはいいかもしれないが、そういうところではフランス哲学はそういうところにいっているのではないか。
また、考えることをやめることに対し、濱野氏はググってくる学生に対してグーグルの上位5位以内に入るものは何かという問いを出せば良いと反論.時代によってやり方があると.
人間は外在する情報から器をつくる。そうなると、知のアーキテクチャはいくつもあっていい。逆に若い人に図書館を使えというのも無理な話。リアルとヴァーチャルが併せ持った環境を制度を提供する側は提供するべきで,使う側はそれらから選ぶ.リテラシーの個人差が縮まり,そうなってくるとコミュニケーションは生まれる.アーキテクチャが当たり前に用意していて、ニコ動などが今なのではないか。
アーキテクチャをつくる人は今や建築家だけでなく、広範になっている。場を設計する人の範囲が拡大していく。レッシグのコード。そのときにどういう知が必要か.それには設計者に対する利用者の知が重要である.
個人で見た場合,それをどう享受、理解できるかが問題になってくるのではないか。全体の知の世界との解決法が問われる時代である。
最後の質問はツイッターからの質問を李氏が拾うやり方。:ダイナミックに知を編成するplayingのある図書館についてのイメージはあるか.
―第三ステージの図書館をつくって、うまい検索をかける自分のつくったオンソロジーで知のネットワークに検索をかけることによってダイナミックな図書館ができるのではないか。人によって図書館の活用のされかたがみえるのではないか。
もう一つ,会場から:本という完結性が崩れていくのではないか?
―本の単位ではあるが、電子図書館では章、セクションなど取り出しの単位は自由になりうる。そういう図書館世界がつくれる.本の単位ではなく、ファクトリーリーバルに展開していける。書物の解体、個人に対する再構築が最もおもしろい。
考えるから検索するへ。書籍というのが一つの人格であるならば、コミットメントがあることで、点から点へのサーチではなく面的なプロセスを含む「わかる」になるのだが、点から点になってしまうのでは。知となり肉となる。知は吸収しすぎるとおかしくなる。全て徹底的に調べ,それからは何も見ない.考えて考えて誰もやっていないことを生み出す,熟成の過程が必要である。

最後に,電子図書館構想のリアルさを李氏が語り,議論は閉幕した.

「わかる」とは何か (岩波新書)

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電子図書館 (岩波科学ライブラリー)

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アーキテクチャの生態系

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NHKブックス別巻 思想地図 vol.2 特集・ジェネレーション

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