・お笑い界におけるアーキテクチャとキャラクター消費

最近のお笑い番組をみていると、昔は落語や漫才、漫談といったスタイルしかなかったものが、マスメディアとともに多様化してきている。特に若手芸人に関しては消費されるスピードと質が、テレビ番組によって変化しているかのようである。
それは根源的に<無から笑いを生み出す職業>だった芸人がテレビ番組に寄生し、それによって生かされているようにも見える。若手芸人の目標でも、<テレビに出る>というマスメディアに触れることを第一の目標にしていることが多いのではないだろうか。しかし、どこそこの番組でよく聞くように、芸人の消費のスピードは年々速度を増しているようであるし、一度テレビに出たからといってその地位が永続するわけでもないくらい、次から次へと多くの芸人が出てくる。その中から1日数時間×数チャンネルの時間に出るのを奪い合うのだから、当たり前だが明るみに出ない芸人の方が多い。
最近はネットにおける情報の淘汰がなされているが、グーグルなど検索システムの上位ランクを位置づけるように、テレビの番組というのも淘汰の仕組みをもっているのではないか。つまりアーキテクチャ。さらにそのアーキテクチャによって芸人という存在がどう変化してきているのかを今日は考えてみたい。
もちろん、劇場などテレビの出現以前からある芸人の活躍の場というのはあるだろう。しかし、仕事を得るには<知名度を上げる>ことが手っ取り早いのはいうまでもない。そこで、概観という形ではあるが大きな影響力となっているテレビ番組と芸人の質を考えていくことにする。芸人の質においては、芸の基本であり、芸人のイメージを特徴づけることが容易な漫才を主体に考えていく。というのも,ぼくは芸人はまず何もなしの状態から笑いを生み出す<しゃべくり>を基本とした能力が必要不可欠だと思うからである。

まず、現状の特徴として一定のコンビが<キャラクター>に依って漫才を成立させているということが言える。具体例を挙げると一方の芸人のキャラクターがコンビを表象するものや、コンビにとって代名詞ともなり得る漫才の文脈に依ってのキャラクター化である。しかし基本的には<ボケ>と<ツッコミ>の役割は一定である。つまり<常識はずれのこと>を言うボケに対して観衆が感じる<常識的な反応>をツッコミが言葉にすることで<共感>という形の笑いをとる。
次に、その淘汰の行われる仕組みとして「M1グランプリ」(以下「M1」)が挙げる。
年末の大きな話題となっている「M1」では、若手漫才コンビの競争が繰り広げられる。「M1」は、テレビを中心とした芸人として一定の位置を保っている島田紳介が中心となっている番組である。優勝賞金1,000万円、結成10年目までなら有名無名関係なく出場可能という中から一組のコンビが選ばれる大きな淘汰が行われるだけあって、ここで決勝戦まで登り詰めたコンビが、その後有名なテレビ番組に多く出演していることはよく知られていることだろう。

2001年から始まった「M1」では、自由に応募のあった中から敗者復活戦組を含め9〜10組のコンビのネタが本戦である年末のオンエアで放送される。そこには、島田紳介松本人志を筆頭にした中堅、またはそれ以上の大御所と呼ばれる芸人が審査員<審級>として若手芸人を審査する。ここに上がる芸人の淘汰には不透明な部分が多い。その善悪は判断しかねるが、やはり漫才の大きなイベントだけあって、多様な種類の芸風をもったコンビが現れる。素人から玄人まで、本気/記念含めかなりの人数の応募があるという。

特に、9〜10組の本戦は点数での評価が高い順に3組が決勝に出られるということもあり、芸人同士の<差異化>の傾向が高まるのは当然の帰結である。これは「M1」でないとしてもステレオタイプは存在しない。<お笑い>とは日常の差異や物の見方の差異から生まれるからである。


まず最初に表層に現れる芸人像として先行するのは<キャラクター化>による区別ではないだろうか。私たちが<漫才>と聞いて連想する漫才はテレビという地表では少数派ともいえるかもしれない。つまり、現在の芸人はメディアという表象のシステムにおいて、<イメージ>というものを持っている。
さらに前提として、持ち時間に制限がある上に相対的な審査をされるとなると、より密度が重要視される。基本的に漫才は<ボケ→ツッコミ→笑うタイミング>という図式の繰り返しとその文脈によってコンテンツ化される。つまり、密度の高さには速度の高さも必要となり、決勝に残ったコンビはいずれもテンポを意識しなければならないと考えられる。テンポの遅い、あるいは<ツカミ>から客を笑いに乗せるまでが遅いコンビは自動的に笑いが少ないため相対的に淘汰される。本来的な「漫才」という形式で成立し、かつ<ボケ→ツッコミ→笑うタイミング>が多いコンビほど上位に残る可能性が高いと仮説を立てる。

つまり、基本的なテーゼとして、1つでも多くの「笑い=環境」をも自己生成する力が高いコンビほど漫才力は高いと判断されるのである。ここでは、歴代の「M1」王者などいくつかのコンビを検証し、その法則性を探ることで、いまどういった種類の芸風、漫才があるのかを概観してみたい。

まず、歴代の優勝者から見ていこう。歴代王者は第1回の2001年の中川家を筆頭に、ますだおかだフットボールアワーアンタッチャブルブラックマヨネーズチュートリアルサンドウィッチマンNON STYLE、そして2009年のパンクブーブーである。

この中で、2003年優勝のフットボールアワー、2006年のチュートリアル、2008年のNON STYLEに見られる傾向は、<コンビのうち片方の芸人のキャラクター化>である。

フットボールアワーは顔からはじまってそのまま<気持ち悪い感じ>を演じる岩尾に対して、一般的には<イケメン>であり常識的で抑圧的なツッコミをする後藤のコンビである。チュートリアルフットボールアワーとは逆に自転車のサイクル・ベルや冷蔵庫に異様な反応を見せるキャラクターを演じる<イケメン>の徳井に、それに引きながらも<一般的感覚を持ちながら>ツッコミ的発言を投げる福田のコンビである。NON STYLEの石田は全身白のスーツで装い、<視覚的に>キャラクター化をした上で同じパターンの意味不明な発言で井上のツッコミを引き出す。
すなわち、まず<第1の分類>として、キャラクターをコンビの中に内包する枠組みが挙げられる。他にも、はんにゃやオードリーが挙げられるだろう。

しかし、ここまでは今では一般的な形として消費されているが、優勝者となるとこのような形式に回収されない漫才もいくつかみられる。

2009年に優勝したパンクブーブーは、2004年優勝のアンタッチャブルと同じスタイルのコンビである。つまり、全うなボケと秀逸なツッコミのコンビである。両者ともにボケはキャラクター化まではいかないある種の<話術>の上でボケをしており、それに加速度的に過剰になっていくツッコミで、どちらかというとツッコミが<キレキャラ>としてキャラクター化しているのである。これはかなり高度なテクニックである。常識を外れたボケを言うのに比べ、ツッコミは常識を超えたツッコミで観客を超越したところに笑いがあるからで、この漫才は観客に<キレすぎだろ>と思わせる。地味であきれてしまうようなボケとそれに対する観客の思考のはるか延長上にツッコミを置くことで、空間全体のテンションを飛躍させてしまう。ブラックマヨネーズも形式としては同様といえるが、コンビの両者が<自虐的な>キャラクターを備えている上、終盤にさしかかると小杉がキレ始め、吉田が理不尽にキレることで喧嘩のような漫才になることが異なる。これは、パンクブーブーなどが半分漫才で半分コントのような様相であるのに対して、ブラックマヨネーズの場合は最終的にはコントのような様相になる。
これらは、単純なキャラクターを芸人が演じているものではなく、専門的な<話術>が大きくコンビとしての質を左右する。これが<第2の分類>である。

残ったのは中川家ますだおかだサンドウィッチマンである。
それぞれ詳細に見ていくと、中川家は明らかに<モノマネ>と兄弟の常識的な構図の反転が特徴がある。兄の剛は礼二の兄であるにも関わらず弱い立場として存在することによって、よりコントラストを強調し、礼二の独壇場を形成する要素になっている。ここで起こっている現象は次長課長などにも同様のことが言えるが、コントラストを強調するというよりもボケがキャラクターとしてほとんど<無化>しているのに近い。さらに、モノマネの内容は有名人や歌手などではなく、そこらへんにいる人、つまり匿名の記号として演じているわけで、ニュアンスなどはほぼ自身のキャラクターに依存する。すなわち、これらのコンビの場合<モノマネをする>キャラクターが表象する部分が大きいのであって、この意味で中川家次長課長はキャラクターを包含する<第1の分類>に該当する。

ますだおかだの岡田は、現在バラエティ番組で<すべりキャラ>としてなる以前の漫才からキャラクター的に変わっていない。しかし、前述したようなキャラクターありきの漫才がコントのように<見せて>笑わせるというよりも増田が岡田のキャラクターをネタにして観客に終始話しかけているスタイルが色濃く出ている。まるで岡田をネタに増田が話の中心にいて観客を巻き込むような構図になっているのである。おそらく、笑いの内容も然ることながら、観客を巻き込んだことも優勝の要因であろう。しかし、これも岡田のキャラクターありきのコンビであり、<第1の分類>にわけることができる。

そして2008年の「M1グランプリ」において敗者復活戦から奇跡的な優勝を遂げたサンドウィッチマンは、今までの漫才の常識からコンビ自体が逸脱している。形としては漫才という形式になっているのだが、笑いの源となるボケ自体の自由度が高くなっているのである。このためツッコミの伊達の返す言葉が予測不可能になる。つまり、漫才の常識とも言えた<ボケに対する『なんでやねん』などの直接的なツッコミ>というパターンを逸脱し、線的に進行し、積み重ねる形だった漫才の方向性は予測不可能になるのである。
M1グランプリ」の審査においては若干の疑問も残るが、スピード、キャラクター性として完結した漫才を見せたキングコングを抜いて優勝したという事実がその衝撃を物語っている。

また、「M1グランプリ2009」において島田紳介が満点を付けた笑い飯については特筆すべき点がある。このコンビは数年間優勝候補と目されていながらも優勝を逃してきた。その理由が<Wボケ>と呼ばれるこれも本来の漫才を逸脱したテクニックだ。といっても、このコンビは厳密に言うと<Wツッコミ>でもある。島田が2009年に来て「完成して感動した」と言い放ったのは、<漫才における最速>を完成させたからであろう。
笑い飯は「M1」に出始めた頃から「エンジンのかかりが遅い」と言われ続けてきた。しかし2009年、笑い飯はとうとう与えられた時間内に自分たちの世界を高密度で表現した。それはおそらく、一本の漫才で多くのネタを仕込むナイツよりも密度が高い。ナイツは浅草漫才出身だけあって、ボケとツッコミという<伝統的なパターン>かつ<小さな間違いボケ>を守りながら速いテンポで何本もボケとツッコミを繰り返すのに対して、笑い飯は<ボケ+ツッコミ=笑い>の方程式を各自が一回毎に担っているのである。これは<ノリツッコミ>と似た要素を持っているが、「お前変われ」というキーワードによって(時には言わずとも自らが生み出す時流によって)機転が効き、加速的に漫才をドライブさせる。観客はナイツの漫才においてテンポよく笑うが、笑い飯においては連続して笑っているというサンドウィッチマンと似たような現象が起きている。
しかしこれらのような<漫才的テクニック>の高いコンビは漫才に特化した形に落ち着くことが多いため、表層的には<第3の分類>として分けておく必要がある。

これらのことを総合すると、第一に言えるのが「M1グランプリ」という番組としての枠組みの中で商品化された芸人たちが競い合っているのは笑いの「質」というよりも笑いの「数」である。そのためにスピード感、持続のための変則性などが用いられる。そして第二に笑いの「差異」と「深度」である。下ネタまでは行かない、自虐や変態などダークなイメージなど、一般常識から離れた距離感を漫才全体で保つバランス感覚が必要になる。下ネタになると全国放送だと客は引くようだ。
つまり、順位の決まる競争によって明らかに漫才の質は変化しているのである。特に、NHKの「爆笑オンエアバトル」(以下「オンバト」)が点数によってオンエアされるかどうかを審査する番組と違って<1位>を決めることが目的にあることによって芸人の淘汰は激しくなり、多様な表現方法が自動的に、独自の個性に対応させて生産されているのである。
同じような枠組みだった「オンバト」という番組は、<お笑い第5世代>と呼ばれた、現在では「一発屋」であるダンディ坂野やテツ&トモなどを生み出した。これらの芸人は1つのキャラクターのみで消費されることを特徴とする芸人である。「M1」のようにゼロサムゲームでない「オンバト」で淘汰の比較的少ない番組において消費されていた芸人が通常のお笑い番組全般で淘汰され切ったことは「比較的おもしろければよい」という程度を通り越して、お笑い番組全体の出演芸人が絞られてきていることに影響している。

そしてさらに興味深いのが、「M1」で優勝の座を勝ち取ったコンビをはじめ、多くの芸人が、バラエティ番組の極端な傾向によって限定されている場合があることである。

黒瀬陽平氏が「ねとすたシリアス」の第1回後半で指摘しているように、<一発屋>と呼ばれる芸人たちは単に<パッケージされたボケ>としてカメラに人格を丸ごとぶつけているだけである。レッドカーペットなどの番組ではそれに今田がツッコミをいれる。つまり、「番組全体で」漫才となっているのである。ここで投入される大多数の芸人が<第1の分類>された<キャラクター化>した芸人である。ここでは「M1」よりもより短い時間でネタを出し、そのまま流されるという<消費サイクル>が番組として表れている。
だから極端な話として、ある番組でますだおかだの岡田が<スベる>ということすらも<パッケージされたボケ=キャラクター>となって司会者からツッコミが入れば番組としては成立してしまうのである。同様にこの構図が顕著なのは、「クイズヘキサゴン」であろう。ここではパッケージされたボケ、つまりとんちんかんな答えを言うキャラクターとしてつるの剛志、上地雄介、スザンヌらが島田紳介と「環境的に」漫才を繰り広げる番組だ。
つまり、ここで司会者以外の出演者はコントを演じているということになり、それを明確に分けたのが「レッドシアター」などである。その上で番組自体が尺の長い漫才のように成立している。

司会者がツッコミとなり、ボケがキャラクターではなく本来的なボケとして<しゃべくり>する芸人として構成される番組もある。「行列のできる法律相談所」や「ダウンタウンDX」、「踊る!さんま御殿」などのもはや巨匠クラスの芸人が司会を務める番組である。
このような名司会者と呼ばれる重鎮が仕切る番組はわざわざ司会者が「どんなんやったっけ?」と言って一発屋のボケをさせるように文脈をつくる場合もあり、芸人以外の芸能人が多く出演するため、全体としてトーク番組的要素にレッドカーペット的要素が少し入り交じった<お笑い番組>というよりも<バラエティ番組>という緩い枠組みになっている。
しかし、チュートリアルブラックマヨネーズといった<話術>においての実力がある場合、芸人自体が単体として出演する場合もある。それは、芸人以前に本来的にもつ人間的部分を<キャラクター>として番組の枠組みにいれる<芸人の本来的使命の駆使>である。この系統で番組に出演したとしても番組という全体の<部分、役割>でしかない。
つまり、<第1の分類>に近いのであり、<バラエティ番組>の場合、お笑いがメインではなく、<芸能人>と呼ばれる人が呼ばれるわけで、どんな形にせよ、ここまでいくともはや<芸>をする人というよりも番組全体のイメージに貢献する<芸能人>的要素の強いように思われる。

以上以外に、環境の自己生成をする力、つまり個別のトーク力がプリミティブな状態で、かつ全体の規制が弱く、個々がフラットに表出される番組として成立しているのが「人志松本のすべらない話」だ。

この番組では、メインの時間が始まる前に、収録前の芸人の様子が必ずと言っていいほど持ち出される。そこで芸人の口から共通して発せられる言葉が<緊張>だ。それは前述したトーク番組的枠組みに依拠することができないため、自律的なトーク力1本が試される上に、テレビ全般がレッドカーペット的な司会者の存在する番組への慣れの反動ともとれる。

ここでタイトルにもなっている松本人志が、決して<司会者的役割=番組の中でのツッコミ>となっていないことに注意したい。ダウンタウンが司会として出演する番組はあるものの、司会の中心は相方の浜田雅功である。浜田は、どちらかというと島田紳介に芸能界の役割は近い。
松本は全体の仕組みを操作する立場にいるかのように存在しているが、実はここでは他の芸人同様、淘汰される立場に自ら入っているのである。松本は、この立場を存続させることによって漫才、コントなどで名作を残してきた「松本人志」という存在を持続させているのではないだろうか。島田紳介明石屋さんまは、司会者という立ち位置を芸能界の中で定めることによって安定した。しかし松本は、常に人を笑わせる源泉として存在し続けることによって未だに芸能界の中での存在感を維持しているのかもしれない。

話を芸人一般に戻すと、<漫才の分類によるキャラクター>は最終的にテレビ番組という新しい淘汰の仕組みによって<番組というアーキテクチャのタイプ>によって棲み分けが行われているということである。
<第1の分類>は大きな存在としての<司会者>のいる番組に向いている。一発屋なキャラクター性が強く、観客は既視感があり、はじめのうちは爆発的に人気が出たとしても消費のサイクルに最初に乗ってしまう<環境依存型芸人>ということができる。今のお笑い界にはこの分類の芸人が最も多いのではないだろうか。
逆に、「すべらない話」や<バラエティ番組>に向いているトーク力のある<第2の分類>である。<自律型芸人>として地位を得られれば、くりーむしちゅーブラックマヨネーズチュートリアルのように冠番組をもつ芸人もいる。
<第3の分類>である「漫才型芸人」も散見されるが、漫才やコントなどをすることによって<第1の分類><第2の分類>どちらも対応可能とみなせないこともないが、やはり本場は<漫才>なのであって、バラエティ番組などではそこまで存在感がないといえるだろうか。

さらにもう1つ、「M1」で取り上げられなかった<コント芸人>という分類がある。これにも淘汰する仕組みとして「キングオブコント」などのコントを主とする大会もあるが、テレビ番組上では<第1の分類>に入り、持ち前のキャラクターでコント番組やバラエティ番組などで活躍する場合が多い。

以上<お笑い界>の1つの指標としてテレビ番組という淘汰のアーキテクチャを検討したが、芸人の絶対量の増加とテレビ枠の限界のためにお笑いの中でも専門分化している傾向が強まっている。さらに、それによって<芸人>が中心的位置にいるというよりも<芸人がキャラクター化した情報>を番組として消費する例が大多数となり、ますます<テレビ番組>という枠での淘汰、消費が行われているといえる。



ここからは余談に近いが、それらを横断的に出演できる芸人も少ない。横断的な笑いをつくろうとされている番組に「ザ・イロモネア」や「ピンモネア」がある。ここでは確信犯的な笑いの誘いももちろんあるが、アクシデントによる笑いが起こることも目立ち、正当な評価をどこまで行えているかは不明である。
ザ・イロモネア」のモノボケやショートコントを全てクリアすることは、表層的に分化している芸人を統合するきっかけではある。しかし「ザ・ピンモネア」においては最終ステージの<謝罪会見の場>で笑いをとることは、一発芸やサイレントなどに比べて圧倒的に難しい。つまりこれは、<謝罪>という観客が最初から芸人に対して何の準備もできない目線でみてしまう環境でいかに芸人が笑いをとれないかを露呈させてしまっていると捉えることもできるだろう。もし話術によってどうにかなるとしてもピンとしてそこまで到達することが困難である。全てをこなす包括的な芸人が少なくなったのが、今のお笑い番組の中で松本人志以上のインパクトがないと感じる理由なのだろうか。

また機会があれば、これを土台に歴史的パースペクティブをつけてもう少し広くお笑い界を考察してみたい。