・アイデンティティに関わる二重性

やはり関西の独特な時間空間軸はぼくにとって必要なものらしい。地元を歩いていろいろ浮き彫りになった。
今日は地元である兵庫県西宮市でぶらぶらする。たまたま休みだった親父と、ランチしたりと。本を物色してから、少しの間最大のショッピングセンターである「西宮ガーデンズ」を徘徊。地元のSCにいるときの心持ちはなぜか、「じっとしていられない気性」が自分の中で顕在化する。これはたぶん、東京でくらした感覚と地元の緩さみたいなものが併存するからだ。つまりそこでは、大都市東京で日常的に行われる消費主体の生活があり、その場所が立地しているのは自分にとって本来的な「生活」がある地元なのだ。生活、歴史、消費などなどぼくは翻弄されつづけたのかもしれない、と地元のSCという場所で思う。というのも、ぼくはこの二年間,関西を離れ,横浜の大学院で建築史の講座に所属しながら修士論文を書いたのだが,それが近現代史の範疇であるというか、明らかに古典とか歴史とか言われる範疇ではないような気もする。もちろん、現代も含めて歴史である。しかし人の生活に密接に関連する建築を扱う上で、歴史から何を学ぶか,というところで、ぼくは消費主義と本来的な建築というものを選択した。古典において人間に関する思考は終わったとするのが正しいとするならば、歴史というのはそこから何かを学ぶということにもなる。吉本隆明の言説は正直わからんが、そこから乖離したことをぼくは歴史と勘違いしていたのかもしれない、と思うこともあるのである。
これは自分の中での、生活のための学問と社会参加というか最もらしい目的のための学問が乖離している証拠もしれない。一方で批評が現実と乖離した結果の延長上にしか位置していなかったともいえるかもしれない。その要因は、消費文化の都市人としての自分と、地味な生活者としての自分が折り重なって不安定になっている。環境によって頭の中の回転スピードが変化しているようにも思えた。
関西という時間空間軸は、ぼくの身体とも同期できるほどの質をもっているようだ。カフェで隣に座った人も、ぶらぶらしている人も、みているとやはり東京の人とは違う。何か,見えてくるものが違う。ぼくが建築を勉強し始めてからというもの、考えてきたことは、抽象的で、役にたたない事ばかりだ。でも、その中でも、それらを活かしていかなければならないことはたくさんあることはあると思うし、それをどう現実」と結びつけるかが東京のぼくにとっては現実ではないような現実が、現実となって現れてくるような。そんな、意味のある現実、生活がここにはあった。