・卒業設計の射程

リノベーションシンポジウム後残った人たちで飲む。話題はせんだいを始め卒業設計展について。
ぼくもツイッター上でTLを追いながら茶々をいれるといったこともあり、実際にいって見た人と話せてよかった。
やはり、せんだいで「日本一」といいきってしまったことに責任が問われているのが今の問題である。価値観が多様化うんぬんかんぬん言われていて、すべての業界が迷走している状況で、建築もそれにとらわれていることがはっきりとわかってしまう。
しかしそれは「せんだい」い限った事では無くて、いろいろな場所で「本当の一番は何だ」というのが問われているのは間違いない。そうしたい気持ちもわかる。しかし、新潟の卒形展審査であったような、クリティックそれぞれにテーマを与えて、そのテーマで一番を決める、というのが妥当だと思う。そこを何もテーマ設定なしに社会性であったり形態であったりと価値観を錯綜させるだけでは観客もよくわからないだろう。いっそのことせんだいは形である、と言い切ってしまった方がいいと思う。

一方で、このように日本各地で卒計展が行われているという状況は他の学科ではあまりないものなのではないだろうか。学生主体の卒計展が各地で行われて、それが学生の考える卒計に影響が出ていたら好ましいと思う。せっかく「大学という土台の上に立ち」、それを横つなぎにするという傾向があるのだから、それはぶつけるべきところにぶつけるべきだと思う。市長とか地域に根付いた企業とかの人が評価できるような態勢が全国でおこなわれれば、卒計にも、建築家にも日本にとっての奥行きが出る。
地域活性化のビジョンとして卒計を位置付けるのもいいかもしれない。早稲田がやってるような設計、構造、環境にくわえて経営学部とかの論文とトータルでデザインするのもあってもいい。観光を視野にいれた構想として評価、など。建築としての評価と社会としての評価は評価の場所で差別化するべきだ。
全ての大学はどこかの地域に根付いている訳で、そこで四年課題をやるというのはその地域を四年間考えたということもできる。その意味での集大成として卒計を考えることもできるわけで、そういうことを考えた学生もたくさんいるはずだ。それが単なる「形祭り」として終わるのは社会的損失なのではないかと思う。学生のエネルギーを、もっと社会に活かすべきなのではないだろうか。そうしたいとおもっている学生も結構いると思うのだが。

議論しながら飲んだ後、コーポ北加賀屋に戻りぐったりしつつも千葉大院のWと話す。修論の話とか、建築の話とか。久しぶりに建築や都市を語った気がする。なぜ、もっと自分は素直にこうはいかなかったのか。勝手に東京というバイアスに絡めとられていたのだろうと思う。しかし、これからはそうではなく、もっと積極的に行こうと思う。人生はこれからも続くのだから。