・多角的建築人間

話は変わって、今日は @ama_no さんと初対面。ツイッター上でやり取りはあったので、先日といっしょで幾分か話したことのある人ととして受け止められた。@ama_no さんは最近独立された建築家の方であるが、お互いに質問を投げかけ合いながら時間を過ごした。アトリエ天工人、ブルースタジオとぼくの最近気になっていた設計事務所に勤務経験の会った方なので前々から興味がすごくあった。そんな話と折り合いながら、ぼくの話も聞いてくださった。あまり人には独立志向があるとは言わないようにしているのだが、やはり本質的に突かれると言わざるを得ないし、その上でのソリューションも少し見えたのでよしとする。
そもそも、ぼくがある会社に入社したことを変だと言ったのは @ama_no さんが初めてかも知れない。ぼくも言われてから変かも、と思った。自分の中ではきちんとした理由はあるのだが、学部で四年間設計をして、院では歴史、そして今は建築と近辺の金融関係の営業をしているのだから、変と言えば変だ。
今日の会話で自分の中で「社会人として」明確に意識できたのは「建築と人のために活かす」という当たり前のことの中でも、金融的側面と芸術的側面というかお金云々関係なく精神的豊かさに直結する側面を両方フォローしたい、それを仕事にしたい、ということだった。学生のときはここは明確ではなかった。仕事をしながら、仕事には「顧客」という相手があって、その人には多くのバックグラウンドがあるということがわかってきた上でのことだった。やっとこさ、自分の中の「建築」が融解して、それぞれの知識が人の部分部分に当てはまった。そうなってくると今やらなければならないことが多くなった気がする。しかしその分、何のためかわからなかったことすら理由がついた。
それはそうとして、建築学科の学生は多くは建築の仕事に携わる。今でこそ広告やメディアなどにも多く進出しているが、社会的なニーズは建築系には建築学科の学生にしかいない。建築をメディアデザイン、プロダクト、インテリアデザインの延長として捉えるならば「社会」が、「建築」が解体、融解してそのニーズへと分散したとも捉えられる。そう考え、かつ「営業」という響きが反文化的で建築界が歴史的にも忌み嫌っていた職ということを除くと営業も普通である。そもそも、建築家が雑誌に作品を掲載することも営業活動なのであって、文化的領域ではあるが資本主義社会に乗っているのは間違いない。その中でぼくは作る以前の思考を求めたまでのことだ。そのためにぼくはソリューションとしてバラエティに富むバランスのいい企業にいるつもりだ。その上で今回明確になったことが、建築を作る上でのコンサルティングとして自身をメディア化することを望む。そこには人を見抜く力が必要であるし、建築を見抜く力も必要ではある。しかしぼくはそんな架け橋になりたいと思っている。すでにマスメディアではニーズに対応することは不可能であるし同人的雑誌の集合として自身を公平な立場に置かなければならないが、それが超理想的な自分の姿だ。
それが明確に意識できるだけで全く違う。後はやってみるしかない。