・行動を前にして言葉は無力である

前回のエントリの続きのような感じだけど、資本主義に埋没する自分を書き留めておきたい。
ぼくの仕事は「営業」である。といっても安易に想像できる商品を売り込むだけの仕事ではない(そのぶん、ただ「営業」というのはどうかとは思う。みんな営業行為は少なからずあるのだから)。
先日、グループ会社に一日だけ研修に行った。その会社は建築の管理をする会社で、ぼくが所属するゼネコンとコンサルを組み合わせたような会社とは少し違う働き方だ。しかし「営業」という意味では変わらない。
まず、一日のスケジュールの組み方。「ノルマ」とか「目標」はまずある。しかしその数字は、管理数から算出される数字であって最低限度で最高限度。そこを月、日で割る事で一日の目標が見えてくる。さらにそこにクレーム処理などの業務が加算される。それが一日の業務といった感じ。しかしそこの目的としてはリフォームや定期業務といった変な言い方だが「利益を生む事柄」を探すことでもある。言うまでもなく、ぼくの勝手な認識である。でも、本質的には間違ってはいないと思う。
一方でも、ぼくは目的的には建物を売る仕事。抱える顧客というのは存在するけども、そこを月一回回ればいいというものではない。潜在顧客がいるということではあるが、タイミングもかなりある。単なる意識であったり、相続、状況の変化など。その状況を把握する期間というのは一定には必要なのだけれど、そこで商機があった場合、そこに意識を集中させることになる。ここまでで言うと先に例にだした管理会社とやることは同じである。ルーティンとしての仕事(しかしそこにも集中力が必要になる)があり、そこから後者の仕事が生まれでることになる。
ここからが不思議なのだが、一日何十人、月で何百人と人と会っているとある意味では「運のきっかけ」としかいいようのない事態が日常的に起こるのである。それは「建物を建てる」という大きな決断に比べれば茫漠とした意識だ。つまり、ぼくら建設会社のエージェントからすると半非日常的な出来事となる。それが学生時代との大きな差とも言える。トピックスとして挙げて上司に報告したとしても、さらりと対処法を述べるまでだ。
すなわち、前述した会社の仕事が他律的に決まってくる数字の達成であるとすれば、その効率性、質が大きな問題になる。建物の日常を管理するということは、そこに住む人の生活を「適正化」すること。それをどれだけ早く対処するか、である。逆にぼくの会社は問題解決以前の問題を日常の仕事に孕み、自律的に模索することが必要で、その延長に問題解決まで至るという多層の次元を孕むことになる。さらにその枠組みは自分が自律的に算出させなければ出現しないし、すればするほど仕事が増えるというパラドックスさえも含む。ここまで書いといて何だが、地域の人口が決まっている上では、それは管理数とほぼ同じ概念であるから「営業」という仕事においては同じだ。そのためどれだけ早くトピックスを挙げ、早く対処できるようになるかが「仕事」としての条件になる。ぼくの今の目標だ。

そこで必要になるのが、仕事を日常化する、ということだ。つまり大きく、大雑把に言ってしまうと人生=仕事の方程式を保ち続けることであり、そこには「その仕事をする意味」が必要になってくる。生きていく上で絶対的に。人生ゆっくり生きたいと潜在的に思っている人や言っている人は現に周囲にいる。そのやり方で生きること(仕事をすること)を保つ人はたくさんいるだろう。高度経済成長期ではないのだから、そのようにして決断を先延ばしにすることは明らかに可能だ。しかし、そう考えない人であれば何かをやり残す、回避するということはしない。いつかまた同じような対処を行う要請はあるのだから。

つまり、今日のエントリでぼくが言いたいのは、今まで述べた「仕事」を洩れなく行う環境を自ら維持しなくては次のステップにはいけない、ということだ。それが主体的な、そして自律的な仕事であり、そこには自由をも孕む。上司は結果しか求めていないのだから。その「権利と義務」を全うさせるのがマネージメントの責務であってそこに沿う適正化こそが仕事である。だから、言葉、特に言い訳は行動という結果を前にしては何の意味もなさない。「なぜしなかったのか」という疑問に答えている時点で仕事以前の問題なのだ。