・自己中心的社会

仕事で何を求める?昨日の飲み会で直属の上司がぼくに向けて放った質問。
「建築のデザインはもとより、全ての意味で自分の求める事で顧客が満足、共振してもらえる仕事をする事」。それがぼくの返答だ。
それ以上この会話が続く事はなかったが、自分の趣味を共感してもらう、ということに受け取られたかもしれない。趣味を仕事にしたいということほど就職活動中聞いてきた言葉はないかもしれない。しかしそんなことは特に求めてはいない。

営業という職は本来、消費を促す職である。その本来的な志向はいつまでも変わらないだろう。しかしぼくがここで伝えたかったことは、テクニックでもタイミングでもなく、自らを全て没入し、その上で誰かが建築、経済で誰かとの間を架構される、関係性の担保を仕事として持ちたいと思っているということだ。商品に付随して顧客は存在するが、個別の人格として商品に参画してもらいたい。それは「建築」だからこそできることであるとも考えている。と言っても、建物も商品である。代表的なハウスメーカーから、建築家の作品まで。需要と供給の関係は必然的に生まれ、コストパフォーマンスが良いものが良いということも事実だ。
特にぼくは現段階で不動産、建築業界の先端的議論の範疇までの建築を作りたいと言っているわけでは決してない。ぼくはサラリーマンだし、会社の商品を売る事が仕事なのだから、理想的な建築を作ることが仕事ではない。将来的にそれをやりたいとも思うのは思うけれど、今の段階で何もできなければそんなものも作れるはずがないのだ。それに、ニッチのクライアントを狙うことも今のぼくには必要ない。「現実」に直面することも今やっておきたい一つのことだから。つまり、建築に興味のない人など腐る程いるのだ。しかし建物が必要な人はいる。それが目的的に建築が作られないということであり、ぼくが今最も学ぶべきことであり、そういう人たちにも建物を売る努力をしていかなければ都市は発展しない、ということなのだ。

さらに、冒頭の質問の返答に対して上司が言った言葉は、「他人の喜びを自分のものに替えることの方が難しい」ということ。自分の作ったものに共感してもらうことは、人を選べばできるかもしれないが、このことには自分が変わらなければならない。客の苦悩を知り、疑問を知り、全てを解決する。それが他人を必要とする「仕事」である。これができなければ、ぼくに何かを言う資格はない。

こんな仕事をしていると、「あるべき都市像」とか「都市の未来」とか学生のときに考えていた事が意味不明に思うことがある。都市なんてただ人が集まって住むところである。しかし「住む」というのは生きるベースのことであっていい面ばかりではない。現実を生きる事とはそんなに甘いものではない。
学生のときに学んでいた都市や建築といったことはそういう部分にきちんと焦点を当てていたものだろうか。個人の苦悩を解決するように考えられていただろうか。ただただ「時代の流れ」とかいう茫漠とした幻想を前提に作り上げられた虚構でもある気がする。
今ぼくに必要なのは、正論でも未来でもなく、今生活をする人が豊かに生活することができる土壌を「建築によって」手助けすることを学ぶことなのだ。