・大きな誤解

「らしさ」は必ずしも成果物には起因しない、ということ。
今の現況を顧みると、一般的な大学生に比べてぼくはかなりの異種である。建築学科の中では普通でも、それ自体で普通でない。今の立ち位置から「建築」という限りなく抽象に近いものに思考を近づけていた頃を振り返ってみると、作家性というものがそうであるように、「らしさ」が成果物自体に表出し、その「存在」こそが理由であり、意味。これが大きな誤解であった。この資本主義社会の真直中では。
資本主義の身体的な理解は、最上級の共有であるマネー。その原理上で大企業は誕生し、様々な文化的土壌を変更する。そこには数字以外何も表出しない。
「カネが全てではない」と断言できる人は素晴らしい。カネがなくても生きていける、最低限あればいいという人ほどカネに存在価値を見いだしていないようにも思えるが、原理的にそれは不可能である。世界が回るはすなわち金が回る、それはすなわち仕事をすることである。そして仕事とは「仕える事」であってその対価がカネである。
さて、ぼくの仕事は主に権利収入のある人に対してのコンサルティングである。つまり働かなくともカネが回っている人。その人たちの最大の敵は相続税であり、固定資産税であり、所得税である。それに対して「仕事」をしなければその権利収入はやがては自然消滅する。そしてそれは国家、時間との闘いである。「税金」という敵はぼくにとってはパートナーでもある。日本の国土が成立するための税金は、資本主義経済を回すためにあると言っても過言ではない。直接他人に仕えることで得る仕事ではなく、国家という枠組みから働きかけられる。
対人であれば質は大きく作用するが、対国家という抽象的な枠組みに対する質は単なる法律に過ぎない。国家というのは法律であるとも言い換えられる。大きさ、材料、評価額。それらは全て数字に置き換えられる。そのマネタズムともいえる社会で、暴力的な存在理由しかないものがほとんどである。
しかし、そのコンサルというのはそうではない。対人である。最終的な成果物、評価は数字でしかない。それはこの資本主義下であれば何でも同じであるが、それは単に回収される到達点が違うだけのことであり、最大の目的が国家の暴力的な資金回収に対する暴力的な抵抗である。その成果物は、数字に置換されることのできるものであり国家という枠組みに吸収される。その一方で個人に吸収される「仕事」は、数字のための「時間」である。成果物が数字であるからといってプロセスも数字であるとは限らない。そこに「らしさ」が生まれる。それはすなわち個人個人の時間である。

それがぼくの大きな誤解であり、資本主義に流れる時間と資本主義以前に流れていた時間に変わりはなく、目的、目標が明確化され、客観的な判断に基づいている、というだけのことである。