・2012.5.1

いま、仕事をしだして丸二年。
思うことがいろいろある。プライベートも含め、ここ日本で生きる意味は何だろう、と。
もちろん、ぼくはここ日本で生まれて、26年間生きてきた。国家、経済ルール、そして幸せの定義まで植えつけられてきた。
それが自然な生き方なのはわかっている。それがなぜ自然なのかは日本人の大半がそうしているから。生きるために働き、働くために生きる。その相互の運動の繰り返しによって人生は構成されている。
ヨーロッパの人はただ生きるために働き、余暇を大切にして、日本人とは全く違う豊かな人生を送っているというよくある現実逃避的な文言はここでは関係ない。どちらにしろ、日本では日本の生き方というのがあるのだと思う。

問題は、その生き方になぜ従わなければならないのか、ということだ。
サラリーマンであろうとなかろうと、日本の構造が同じ以上、立場や責任やは同じ核に向かって働く。日本という構造の中で最も生きやすい生き方がサラリーマンなのであって、税制を初めスケールメリットがある方がアドバンテージがあるという社会構造の時点でルールは決定されているようなものだ。
この従前のコンテクストに従った生き方をしなければならない必然性に疑いがある。
いま、世間で言われている自由とは、社会ルールの上での自由であって、その自由に触れることは、所詮はルールの上。
I was born.私は生まれた。この受動態の文が全てを物語っているのかもしれない。日本で生まれ、日本で育ってきたという自分で決めていない、自分における既成概念。ここから全ては始まる。場所におけるルール、歴史。
人間は遺伝と環境によって構成されていくという。家系、友人、教育、仕事。人生のロールモデルをみつけ、繰り返す。少し変えてみる。そうやって成功したり失敗していく。しかしそもそも、である。
ロールモデルは限られた知識の範囲でしかない。そこで完全に何かの枠組みに嵌る。どこかで誰かがつくったものでしかない。


だからといっていきなり映画みたいにはいかない。言語も職も、金もモチベーションですら。枠組の中で生きることほどストレスフルでかつ楽なこともないのかもしれない。その二つは相入れないからこそ互いに充足する。人生は二つなんて考え方、誰が作ったんだろ。
本当の自由は仕事だプライベートだ言ってるうちにはないのかもな。