・ふとしたきっかけからの自己分析

自分の趣味は料理である。特に、野外での料理が一番好きだ。ふと、今日のバーベキューからそんなことを考えることになった。

自然の中で過ごすことは幼少のころから自然に自分の中にあったことだった。木の香り、湿った地面の感触、葉と雨音の共鳴。それは今でも都市の中にあれば、ぼくの懐かしい感情を思い出させる。
それもあってかぼくは、環境、地球に関する仕事に就こうと考えた時期があった。思いつくものは環境省くらいしかなかった。地球といったら物理であって、自然現象の研究職しかない。細かいポイントをつくようなものはなく、理論一辺倒。大学も偏差値が高すぎるというところがあった。
村上龍の「13歳のハローワーク」で森林の関する仕事を見つけたのはいいものの、幅の効かない印象があったことや、森林を保全するというところに特に魅力を感じれなかったのが本音である。
そこでぼくの興味は都市にいくことになる。この日本の中で生きるということしか考えていなかったぼくは、都市を考える事がつまるところ自然を、地球を考えるということになるのではないだろうか、と。
それを今日また思い出した。というのも、違和感、自分に考え方の延長上に今がないからだと思う。もちろん、建築が好きだ。周りには気持悪いと言われるくらいである。だがそれはおそらく、大学で培ったものであり、かつ、付属的に自分に興味のあったものなのであろう。趣味に過ぎないと言えばそうなってしまうだろう。

建築、都市における環境とは必ずしも自然との共生がテーマではない。京都議定書からの政治的環境問題勃発を節目に建築における環境問題はエネルギーというテーマにすり替わる。事業所における二酸化炭素発生の低下をトップランナーを定めて低減。ソーラーエネルギーなど建築の付属品としての自然燃料での発電。間接的に地球環境という漠然とした問題に挑む。それは、都市化という自然には二律背反する事象にバッファーを差し込むようなテーマである。

ランドスケープ。ぼくに建築と都市の間に存在する緩衝空間に最も関心があるのは偶然ではない。そこでのアクティビティが自分も好きであるし、そのアクティビティ自体はその空間を構築するものの一つである。しかしながら、自然という環境に慣れ過ぎた自分にとって空間における人工物は存在感が強すぎるようだ。絶対的に自然は模倣できるものではない。メタファーであっても、アナロジーであっても、人工物は人工物、建築は建築だ。そこでのアクティビティは附属的でしかない。しかし、自然への郷愁というものが人にあるのであれば、そこへと向かう誘いを設計するということはできるのかもしれない。

自然という超越した事象へと誘うということ。それは空間そのものであるのだろう。