NHKブックス別巻 思想地図 vol.3 特集・アーキテクチャ 思想地図vol.3特集・アーキテクチャ東浩紀, 北田暁大 日本放送出版協会
とりあえずプログマティズムを中心に。
東浩紀氏はシンポジウムの冒頭でファシズムのそれのような権力ではなく、象徴の存在しない見えない深層の権力に支配された時代に私たちは生きている、としている。現代以前の時代においてはその象徴的事物に対する批判、批評というものが存在できたが、現代においてそれは明確には定義できず、それが言論の失効、そして実利的な出版、新聞文化にも影響を与えている。確かに、金融危機が露呈し、広告収入などの減少がみられる以前にもその明確なイデオロギーの確立の不可能性から他分野にわたる雑誌の休刊が相次いでいる。そこには若者の活字離れなどの問題も浮上しているが、実際はやはり大きな物語の喪失、そして社会的問題点がそれぞれグレーゾーンでしか結論づけられないことが多くなり、それが価値観の多様化として顕在化した。そこには経済という普遍的な価値をもつ通貨を軸とし、マーケティングの常として限りなく一般解を求めることが必要条件となる。つまりそこでは平均的、あるいは多数決的決定がなされ、少数派は抹消される事態が発生、それを自由の略奪として、ある種のパラドックスが成立してしまっている。それは都市における経済的行為か、地域におけるロハス的行為かの選択を迫られるのと同義である。
そこで本来は社会批判、権力批判として機能してきた批評、言論が批判する対象もなく停滞してしまっているという極めてアクチュアルな問題にもなっている。つまり、「アーキテクチャ」という環境監理型、人びとの自由を制限する権力として種々の問題は細分化されてしまう。


東氏はこのような「時代の裏返しとしての言論」から問題提起からシンポジウムの幕をきった。

その根源、プラットフォームたり得ているのがネットを代表とするメタフィジカルなレイヤーである。そこには濱野智史氏がいうような自動生成、展開する「自然」がある。証券化された不動産が所有者から他者へという繰り返しによって無意識にも生成力を生み、さらに個人的、組織的意向によってちぐはぐな強制力しか持たずに建築が建てられて、世界は無秩序広がっていくように、ネットにも匿名的な生成力がある。ここで地球上、つまりフィジカルな世界の「都市」と違う点が建築を取り巻くスケールが都市、人間と多少の変化はあれ時代的に急激な変化はない一方で「ウェブ」というプラットフォームは、その上に無限に広がる組織として多層的にプラットフォームの構築が可能ということである。物理的な制約をもたず、永遠に終焉は来ない。偶然的な細分化や枝分かれとして次々に新しい機能が構築されていく。その自然とも似た測定不可能な状況において細分化された世界はそれ自体の批判をも機能しなくなる。

宇野常寛氏は島宇宙化と呼ばれる文化的トライブの乱立と、それに参画することの証明する象徴として、それ自体を維持することを目的としたコミュニティの形成が存在することを指摘し、これを支えるアーキテクチャが濱野氏のいうアーキテクチャと接続できるとする。しかし、信じたいと自分が思うことを信じることの過程に公共という大きな枠組は意識されず、身の回りの小さな関係性にのみ了解を得る自己目的化したコミュニケーションしか交わされないと指摘する。これがアメリカ的なブログ圏の公共性を確立せずに椹木野衣氏の「悪い場所」の肯定、再生産に結び付く。
しかし一方だけへの注視で現状の社会を批判できない。環境管理型とはいえ、それだけではコミュニケーションの問題までも踏まえることはできず、コミュニティとアーキテクチャ、両者への介入を重要視する。
この宇野氏の指摘にある図式は建築雑誌各誌にも当てはまる議論であろう。「マス・メディアの一つ」として存在していた建築雑誌はこの変化に対応しきることができずに廃刊に追い込まれる。その結果、フリーペーパーなど個別的情報発信、マイクロ・メディアが建築界でも浸透していると考えられる。さらに「建築」に限って言ってしまえば、そこに批評の可能性はブログのようなメディアでしかなくなる。
もちろん、共有できる枠組がないという意識をもって一定の範囲で影響力をもったフリーペーパーと議論の場を作ったのが藤村龍至氏やTeam roundaboutであろうが、討論のなかで宮台真司氏がこの種の議論が失敗なのではないかと語る理由である「アーキテクチャ」についての議論すらすでに相対化された島宇宙なのではないかというのも、ブログで藤村氏が分析していた範囲でしかピンときていないということから理解が多少はできる。


東氏は磯崎新氏のプロセス・プランニング論における「切断」がネット社会における「ログ保存」によってネット以前の「切断」を何がするかが重要であったのを、大きな切断面だけでなく微小な条件を組み込んだ設計として藤村氏の設計を挙げる。もちろんこれはフィジカルに落とす必要のある領域に限る。

そして深層を明確化するための手段としての建築を行使し、問題提起を図るのが「超線形プロセス論」である。藤村氏は直接議論には参画していないがアーキテクチャの顕在化として、そしてアクチュアルな方法論として建築、建築論を誌面で展開している。しかし、それは少しニヒルに見ると、社会に対して明確化するためのある種の自己犠牲を図る、ジャーナリスト的に自己の方法論を利用させやすくしていることが強い「建築家」であるようにも見える。
「超線形プロセス論」では建築の自律性の獲得と専門分化した諸処の条件、職能を統合が共犯関係をなしながら相互に成立させている。「BUILDING K」をはじめとする氏の作品のプロセス、つまり「超線形プロセス論」において、本来なら工学的に消化されてしまう要素を建築的に、プロダクト化された「製品」を使用するスピードと同等の速度を求めながら解決される。
単に隠すのではなく、それをポジティブに利用することによって建築に従属させる氏のいう「深さ」、つまり建築化。これはアレグザンダーのいう形、つまり問題解決のための手段である。そして条件解決のアルゴリズム化、その上で段階的に行われる「切断」でログを残すということはその切断面を多くもつことである。つまりは単に残しながら、戻らずに、一つひとつ解答して、プロセスを伝えるためのメディア化することによって政治的同意を得る、ということである。

現時点では藤村氏は建築学の「教育」、そして「社会学」側の立場に位置しているとも考えられる。首都大学東京などの非常勤講師のレポートを読めば、建築設計という講義がいかに曖昧なまま学生の主体性のみに頼り、フレームとしてはあっても講義として講師が何かを伝えるという役割が機能していなかったということが露になっているようにも感じる。そして首都大、慶應大での松川氏との比較的アルゴリズムの教育的実践ではその政治性の強さを物語っている。
さらにそれは社会学のミッション達成のために建築という「事例」を挙げているようにも思える。つまり社会学の言説から建築学に引き寄せ、また社会学の領域に東浩紀らによってフィードバックされている。そのループの次の段階がこれから展開されるのであろう。


そしてこのプラグマティズムにおける議論は社会をどう変えるか。

第1に、「都市」「建築」と「社会」の関係性の構築は現代日本で必要とされている専門分化からそれらの横断的な統合である。社会起業家的なピールミール・ソーシャル・エンジニアリングへの発展も期待できる。社会学への参画を行うということは社会学的言説の生産、つまり閉塞した時代における道標を建築として残すということと同時にハード/ソフト思考、統合的役割を実際的に社会へ還元する可能性があるということである。

第2に、社会「学」と建築「学」を架構した上で一体となったベクトルはどこに向くのか。これはメタフィジカルな問題でありこのシンポジウムの本来的な議論の目標であるが。
建築学としての目的と社会学としての目的は同じ「共同体」としての社会というフィールドにあることは変わりはないが、その言説的方法はまた違うものとして存在している。それらをつなぐ糸口をどこで見つけるかでまた議論のフェーズは全く違うところに行く可能性もありそうだ。

そして第3に、藤村氏が意識してないとしても線的、つまり都市の周辺環境に肯定的なフレームから建築批評は生まれるのか。「建てること」によって批評性を持ち得てきた建築の主体性は失われ、メディア、つまり言説に昇華、または還元することの可能性は、そのままシンポジウムの議論の疑問符と一致する。建築自体がその実践となり得たとしても建築自体に進化はあり得るのか。つまり、組織設計事務所的フレームを構築した時点では建築においてどこにも批評は存在せず、そこから身体的な何か、それこそ個々の「作家性」が問われるのではないか。
藤村氏の「建築家としての」建築の目的は地域主義、批判的コンテクスチュアリズムであり、論理的には「アイデンティティをもったアノニマスな建築」と評価できるだろう。しかし「都市に開かれる」というドグマは内包しつつも、建築家が主観的であってもそれを享受する島宇宙的なコミュニティが社会に存在する限り建築学一般において作家的批評にはなり得ない。また、すぐに社会に還元されずとも超スパンで思考する上で社会に還元される建築から提案される社会における新しい価値になり得る可能性は低いように思われる。