ヨコハマへリテージ設立記念シンポジウム「明日へつなげよう みんなのたから 横浜の歴史的遺産」 @横浜開港記念会館

司会からあいさつ、配布資料確認、会員、団体資料の説明などがあった後,副会長の吉田鋼市氏からのあいさつ。主としてはヨコハマへリテージの設立についてである。同社団法人は、今年の6月2日の開港記念日に設立された。「横浜市歴史的資産調査会」であり、1981年、つまり28年前に設立歴史的資産を活かす活動、情報発信を合わせて行ってきた。その遺産を受け継いでいく。「市」と「的」がなくなるだけだが,名前だけで組織は大きく変わる。横濱国大も大学法人に変わったことで、何も変わらないと思っていたが,5年経つとじわじわ変ったという。善きにつれ、悪きにつれ、祝福されて生まれたのだから、すくすくとそだっていくと思う、と抱負を述べた。そして、早くから資産を活動して来られたからいろいろな助言をいただきたいと思い,今日のような講演が開かれた、と開幕を宣言したのであった。

次に,横浜市都市整備局上席調査役の国吉直行氏からの活動などの報告を含めたあいさつ。横浜市の遺産を使い、まちづくりをベースに皆さんと残していこうと横浜市はいろいろとやり、リストをつくるなどもしてきて、学識者にも手伝っていただこうと生まれたのが前身の「横浜市歴史的資産調査会」です。本の編集や建築の評価、山手,土木など建造物の楽しみ方,おもしろさを解説などを行っている。現在は単に文化財として残すだけでなく、魅力として使っていくことを大事にしているという。
現在,認定文化財が80件.登録が181(?)件あり、数年前から多面的活動を望み、学識者の団体、自律する組織を作れないかと模索してきた.調査会は振興財団に援助.横浜だけでなく幅広く,他分野などでもやっていこう、と新しい組織をつくろうとして、設立された。これからも神奈川の歴史遺産にご助言いただきたい.新しい組織をつくる上で参加者が学識者なので、組織的なことは苦手ではないかと思いますが,前身のときから事務局長だった方がボランティアでがんばってここまでこれた。今後とも神奈川とともに大きな成果を残していきたいと将来へ向けての意欲を露にした。

次に基調講演、「まちを楽しむ」。関東学院大教授の宮村忠会長から。
「今日の紹介はみなさんの見方と少し違うかもしれない」。宮本氏はNPOの活動を中心に活動しているが、幸か不幸かここに残されているのは歴史的ではない.清澄庭園とか安田庭園が残っているくらい.あとお墓が残っている、と歴史的建造物を中心にした組織の中での自身の差異を明確にした。実はここは自然発生的な寺町ではなく、全滅を続けてきた。明暦の大火、安政の大地震、明治の大洪水,関東大震災。一番短い間隔なのは東京大空襲で、約10万人を超える人びとが焼け死んだ。それ以降、災害は起こっていないが、そろそろ来るだろうという。そんなところだから紹介するものはないが、歴史には「人」があるだろうと、建築を中心としたまちづくりではなく、もっと根本的に人を中心とすることでこれからの「まち」をつくっていく姿勢を見せた.
「我々は人を基準にやろう」、と。著名な人物は町からでていってしまう人が多かったらしい。伊能忠敬は千葉からきて歩いて距離を計る訓練をして日本図を書いた。訓練をしたのが江東区にあるというが、本当はない。隅田川が災害の度に変わったため、そのまま残っている、という場所はないというのだ。松尾芭蕉もいて、史跡はないが、記念館がある。ここも場所がわからないから記念館になっているのだとか。松尾も災害とともに本庄からでていった。
残った人はもう一回やってみよう,やりなおそう、と。そのような気風がここにしたたかに残っている。それが「復興」として現在の本庄深川が残っている.これが「人」を中心だというまちづくりの風土になっているということだ。
これから大災害を止めるのは無理、内閣府の災害委員会によると復興に5週間かかるという。電気、水道などインフラは一端失うと回復は大変.昔ならもっと早かった。空襲のときそこらへんに死体があった。そういうときに偉い人が見に来ればいい.スピーディーになる。東京空襲後は次の日からバラックが建ったが、次からはそうはいかないだろう.水も何もない。先端の情報機関も使えない.そのときになんとかしようというのが今回の復興だという。具体的には、大型のブルドーザー、クレーン、備蓄食料も用意して、隅田川荒川放水路を物流に使おう、と。普段から使わないといけないから船で遊ぶ、という日常から非日常的な災害を意識したまちづくりを紹介する。
荒川放水路は人工で、隅田川の明治の洪水のためつくられた。大きな川が両側,中に小さな川があって,物流の利便性がとても高い。昭和3年完成し、ここに工場ができて、臨界工業地帯の走りになった。東京を重化学工業地帯で職住一体の町にして、大阪に勝つという劇的な変化だったという。
しかし工業用水がない.ということで地下水を掘ったのだが、地盤沈下してしまった.自分たちの商品が地盤沈下で船で通れなくなって工場は外にでてしまった。そこに現在の集合住宅ができた。20年前に人口が6割を超えたのだが、半分を超えるとよくない、と氏はいう。町内会で寄付が出ないのだ.神輿を担ぐとみんなでてきて土産だけもっていってしまう、と現代的なコミュニティの欠点を具体的に述べた。
この中にたくさんの水路があって、そんな水路をつかって集合住宅の人もいっしょになってつくろう、というポジティブな考え方でまちづくりをはじめた。
復興一周年に向けて船で遊ぶ企画なのだが、新名所、新東京タワーができることを利用しているようだ。墨田区にできるのだが634mで日本一の高さになる。最初はもっと低かったが上海でこれを抜くのができたからそれより高くということでこの高さになったという。
しかし、実際、見えるところがあまりない。建築中のところを今から見ときなさいという船遊びである。ここで写真を提示し、隅田川荒川放水路のバイパス側、中川を映す。なるほど、水上からだとビルに邪魔されることなくすっきりと新東京タワーが見える.他にも十間川、横十間川があり、ここからでしか見ることができない,ここが一番のビューポイントなのだとか。
次に水門の話。扇橋閘門は水路をかえている。30年で地盤沈下が起こったから、3mほど推水位を下げることになったため、間に閘門が必要になったという.阪神淡路のとき道路が使えなかったので、仕方なく、港から船でしかなかった。その教訓から、いざというときは船しかないということで急遽つくった。陸海空の拠点をつくって物資をだそうというのがここの特徴。しかし船が通れない水門があって、それをなんとかして通そう、と。確率で200年に一回の水害はポンプが何もできない。それでどうするか。
(水害による水の広がりがパワポで映しだされる)パワポが送られるとともに、水は全体に浸透していく。水害時のときどう対処するかという問題に対して船が通れないからレールで上にあげてしまおう、船が空を飛んでもいいのではないかという答えに至り,どういうところなら通れるかの勉強会をディズニーランドの人たちとした。
また、伝統的に残っている情報を使おうと、一つ、手旗信を使っています。カタカナを体でつくるものだが、これが情報として大成功して日清戦争で大成功、日露の前に手旗信号法ができ、大変な基盤になった。見る人は何人でもよく、みんなに伝わる、情報機関のない時代のアナログな手法を災害時に援用しようというのだ。それに加えて信号と同時に一つだけ持って逃げるものでもうひとつ、ロープがある。私も10数年ボーイスカウトをやっていたので経験があるが、ロープは様々な場合に役に立つ.ロープワーク用と手旗のバンダナもつくって、説明書も作られ,ワークショップのようにして日常的に小学生を巻き込んで防災していいく。楽しまなければいざというとき使えない、というのが氏の考えだ.

宮本氏のプレゼンテーションが終わり,司会から事例紹介のイントロダクション。歴史を活かしたまちづくりをしてる人に集まっている。まちは生き物.みんなで考えてよくしていこうというのが今日の主旨か。市民活動とリンクしてどうしているかが鍵になりそうだ。

トップバッターは馬車道商店街協同組合の六川勝仁氏。馬車道の中心に損保ビルがあり,認定第一号の建物だという。平成元年完成。保存活動のきっかけではないかという。
馬車道の位置は約800mに亘る。開講から8年、慶応3年にできた日本人の町から外国人の町を結ぶ場所だった.防火隊も含めて60フィートにした、馬車などの計画道路である。明治6年の地図を提示。明治40年歴史博物館が移る。2回まちづくりやっていて、第一期が昭和51年で地方都市の感じを新しくした。セットバックして民地からも空間を提供してもらう。
「ライブタウン整備事業」ではソフトの研究から始め,サインや広報を研究。ハード整備でポンチ絵をつくったりした。また、パースを書いたりも.完成後は馬車道オールドタウン。50種類の植栽。石造りのファサードは残す.新築でも1,2階は石でできている.
次に日本火災の話.部分保存。芸大の旧富士銀行は全面保存で残る東京ガスから4本のガス灯をいただいたという。日本興亜損保ガラスファサードで向かいが移る形に.保険会社という社会的責任上老齢化したものを残すわけにはいかなかったが、学会などが保存運動をした。学会長が保存運動に熱心だった村松貞次郎の時代である.BIS賞にも選ばれたという。使える部材を集めて足りないところは付け足して馬車道の建造物をどう現代に活用するか。まだ8棟ほどあるが、安易に壊すことなく、使っていけたらなと思う、と語った。

次に長屋門公園歴史体験ゾーン運営委員会事務局長の清水靖枝氏からのプレゼン。平成4年に、130年、400年前の歴史体験ゾーンを設立。歴史的建造物に認定されている.
古民家をどう運営するか.市民のものであって、市民がわたしたちのものといえように、できてよかったと思えるように運営していきたかった、熱の入った口調で語り始める。移築する意味合いは、営みを感じ合える、先人をみて私たちの脚元を見て,自然,人と人の輪を大切にすることを振り返ることができる、と歴史的な場所が存在することの意義を語った。
年中行事を行うことにし、現在は年間80くらいやっているという。コンサートなどの文化事業が中心で、横浜から18分という場所の恩恵もあり、8万人がくる。ただ古民家があるだけなのに、そこにきてくれるのだから、理由があるのだろうと思うと。ちょっと昔に戻ってみたいなど。
行事は600から500人くる。運営スタッフは二人だけだが、ここにボランティアという大きな協力があるのだという。ここが好きで、ここでなにかやりたいと言う人が自発的にきている。組織化もしていいのにも関わらず、50、60人くらいが組織をせずともそれぞれの力でやってくれているのだという。
二つの連合体に囲まれているが,よく使ってくださっているのだという.今年、七夕に灯籠を飾って楽しんでもらおうと提案すると、ボランティアの人が作ってくれて、並べるなどの作業はを住民や小学校などが手伝ってくれたという.1万人来場が来場した.
なくてはならない公園になっている。隣はすぐ民家だが、近所の方が掃除したりなど地域の中で受け入れてもらって,素敵な門と古民家になっている、とまちを愛する市民の姿が目に浮かんだ。
金沢からきた人が横浜の税金に対して、ここまで楽しかったら,そこまで高くないね、と言われたというエピソードがあり、残してくれたこと,みんながよろこんでいることは事実。小学生が見学にくる。この子どもたちが大人になってからも来てくれることを願って毎日子どもの相手をしているのだという。

3番目はNPO里山研究所NORA主任研究員の吉武美保子氏。冒頭に「この花知ってますか、知ってる人は挙手ください」ときれいな花の写真を提示した。カタグリという花、キンラン、ギンラン、ヒトリシズカフレリンギョウ、チゴイユリ、ヤマユリ。これらは全て横浜市内でみられる。ヤマユリは神奈川県の花である.学名も横浜でつけられたのだという。植物学者が開港ではいってきて、それを持ち帰り,カサブランカの品種改良にも役立てたというエピソードもあるという。
次は写真を出し、カミキリムシが穴をあけて樹液をだし、虫があつまる。ヘイケボタル、カワトンボと生物の多様性を感じさせる秀逸なプレゼンである。緑豊かな景色写真もあり、谷戸 竹林、田んぼ、丘では雑木林と、都会ではなかなか見られない里山の風景をみせていただいた。襞のように谷戸が入り込み,こういうところがまだ残っている、と。かつては谷戸を基調としており、原風景になったという。
田畑のことを野良というが、山は雑木林。ハレで祭をする。自然は手をいれてつくられてきた.森を手入れして、落ち葉を燃やして堆肥に。地形にあわせて畝がつくられていた。土手ではよもぎをとって草餅をつくる。お盆飾りを農家の人は竹,まこぼ、みそはぎでつくっている。
暮らしの土台にあって、風土で成り立ってきた.職は田畑、住は竹林などで、それが風景になってきたのだ.暮らしのあるところに文化があったが、緑地の推移の地図を見せながらどんどん都市化で少なくなっていることと嘆く。東京から越してきた人からは緑が多いという。斜面緑地の緑の稜線が自然として残ってるのではなく、農家の森であって、それが今の風景になっている。農家の野菜を自分たちが売るなどの活動をしている、とプレゼンを締めくくった。

次のプレゼンは都心部を中心としたBankART1929代表の池田修氏だ。BankARTのポジションは、都心部にあり、界隈を元気にしていこうというものだが、支えているのが里山とか世界。多軸の活動をしている。
概要説明。名前は元銀行のバンクとアート.1929年は世界恐慌の年であり、建物竣工した年でもある。現在は日本郵船倉庫を使用しており、回収も大半終了、大きな倉庫空間を所有している。中は改修したところと古いままのところもある、おもしろい建築物だ。文化のための文化ではなく、まちづくりの一つのきっかけにしてほしいという。横浜市のクリエイティブ構想のひとつであり、創造界隈の構成新しいネットワークをつくる。

ここからはキーワードを使いながら説明.
「公設民営」事業補助金6500万円,自己収益8000万円。仕組み推進委員会,横浜市BankART
まちづくりのツールとして。
「自由度」民間なみの自由.
「未完成」ハードもソフトも未完成。成長していくシステムになている。たくさんの人と関わりながらできた。
「空間のフレキシビリティ」移動式のパネル、空間をつくって歴史的建造物に適応。時間帯はゆるく、ひろく。撮影のオファーに対しても高密度でやる。
「キャッチャー型」オファーが1000、やるのが300。「モボホガを探せ」上海など5大陸にいく予定。「橋をかけろ」車椅子のひとたちを橋をつくった。
日常的なとき何をするかに力をいれる。ショップやコンテンツコーディネートなど。
主催事業は地震エキスポなど年間300、今までで1500くらいの事業を行う.
町中にも展開、日本のネットワーク。
特徴は「リレーする構造」であること。「サスティナブル」という言葉は好きでない、リレーション、レスポンスといった何かやられたことに対してものがつながっていくのでないか、と。藝大誘致の際も優先してとってくれたという。

次はフェリス女学院などのミッション系スクールもある山手の西洋館を管理している財団法人横浜市緑の協会の都心部・山手事業所の深沢啓子氏からの発表。
7館の指定管理者である。点在しているのを線でつなぐのがコンセプトである。80名の女性が働く。それぞれ女性の館長パートタイマーで、1億2千万円のうち6から7割が人件費。修繕費は10万円以上は市だったが、50万円以下は管理者がという方向性になった。男性がやっていたときは1ヶ月4万円を花にかけていたが、NHKの取材のときに花を活けてみないかと言うと人が花を持参して集まり,お花を活けて下さっているという。250組ほどが、花を持ち込み、場所提供ののみでボランティア活動をしている。
西洋館ではコンサートも行っている。485組7館合計で山手が音楽の楽しみの場になっている。PRが仕事。
6月に「花と器のハーモニー」という食器メーカーから保険かけて借りてイベントを開催すると9日開催で6万人が訪れた。
7,8月は「夏の宵のコンサート」で演奏ボランティアが40回ほど演奏をした。
10月は「ハロウィンスタンプラリー」。仮装した子どもたちが参加、6千人親子が参加した.
12月には「世界のクリスマス」というイベントを行い,7館が違う国のクリスマスを大使館の協力を得て行った。40カ国分のクリスマスをやり、コスタリカなども紹介した。
1,2月の「山手芸術祭」では女学校、インターナショナルスクールなど11校の生徒の作品を飾る。
また、地域との連携として、エリスマン邸,外交官の家で喫茶店を行っている。
今後の展開は、クリスマスイルミネーションを行う。25日まで述17万5千人が訪れる。23日は3、4千人が訪れ,外交官の家の館長の時、床が抜けそうだったという。
多くの人が来てくださるので延長して、クリスマスは夜7時までにしたという。
また、元町小学校総合学習をおこなっており、地元の歴史文化を知ってもらう活動をしている。
最後に、全国的にもっと知ってほしい、と抱負を述べてプレゼンは終了。

次は少し場所を移して,横須賀だ。ドックと浦賀の歴史を愛する会の山本詔一氏が発表した.海と川の混在が名前の由来。浦賀はペリー来航で有名で、浦賀市だと思われていることが多いらしい。横須賀市になかなか合併せず、今でもさせられたといっている。というのも、ドックがあったからさせられたのであって、海軍工場と民間の工場をひとくくりにしないといけなかったから合併した。浦賀の造船所はペリー来航に由来。西洋式軍艦をはじめてつくった。9ヶ月のスピードで、修理のためのドックがつくられたのが浦賀のもう一つの顔である。
地図を表示.浦賀ドックのあったところで、なかぼりが最初のドック。翰林丸を修理した。このドックは煉瓦、こんこん石で、粘土質の強度のある材料.磯子から三浦半島の山をけずってお台場をつくったのだという。このドックも同じようにつくったから煉瓦作り.今でも1899年から現在も動態で残っている。
引き入れもかつては人力で行っており,綱引きの「オーエスオーエス」もフランス人に教えてもらった言葉で、意味もわからず使っていたという。
平成2年には浦賀国際文化村構想があり、手をつけずに周辺のみゾーニングした。行政、住友重機械が再編整備計画を行い,ミュージムパークにドックが、150m、高さ17、8mの基幹工場が残っている.「レンガドック活用イベント実行委員会」が組織され、「ドックと浦賀を愛する会」を結成、イベントをしはじめる。現在でも住友重機械所有のものを市に借りてもらって何ができるか模索しているという。
イベントには産業遺産紹介ツアーがある。上からみるのと下から見るのは違うことや、基幹工場の中を公開している。浦賀歴史研究所を来年から構成、ドックのもっている歴史など子どもたちとも活動している。


またまた場所は移り,湘南、邸園文化圏再生構想。菅孝能氏からのプレゼン.
成立の背景として、なぜ湘南に別荘があるのかは、岩倉友美が欧米視察団にいってきて、ブライトンという海岸の保養別荘地を見とことに始まる。結核などの保養を海水浴で主流だった王室の離宮があったり栄えていた。同じような距離の湘南に別荘を構え始めたのが発端。温暖な気候、豊かな自然。今の住宅市街地につながる。
洋風住宅350、近代住宅500?ある。一方で相続、リストラなどで壊されたりミニ開発が起こっている.
これに対し、NPOが地域の遺産としてまちづくりとして活用。しかし単独では収益が上がらないため、恊働の歩調をとって活動していこうということからこの調査団が始まった。
旧モーガン邸の保存では各地のNPOがサポートを呼びかける。(?)氏がナショナルトラストにいるときにネットワーク組織をつくり、その後国交省都市再生も調査をつかって政策提案する。県でもサポートしてくれるようになっているという。
成果として、大磯吉田茂邸を県が取得がある。残念なことに焼失してしまったが。
また、ここでは別荘のことを邸園という。これは建物の邸と庭をもつというのが一体となっているのが価値である、ということである.それをどうやってもまちづくりに活かしているかみてもらうために邸園文化祭というものを行っている。シンポジウムで課題などを情報交換も。
活動として、大磯の三井邸を市民の手で保存した。解体調査を依頼、宮大工の指導で解体、再建授業者を募集中だ。調査ではレーモンドのクラブハウスの活用提案をしたり、活用相談事業、湘南邸園文化祭を行っている。
邸園には建築、重要文化財、文化芸術、地域活性化、イメージ形成、景観的、歴史的など多面的な価値がある。そのためには行政に頼っているだけではだめで、使っていかなくてはならない。どうすればいいか考えている最中だという。所有者,使いたい人に相談に乗ったり,建築技術、マネージメント両方からアプローチしている。県では建築技術者,マネージメントの養成を行っている。

最後は横濱まちづくり倶楽部の近澤弘明氏。
NYなど海外ではあるのに、横浜をシティセールスするときに本がなかった。だから作ったのが、この小冊子、と横浜のスタイルブックである「yokohama patchwork」を紹介。
話は組織についてになる。審議会などをつくるのが横浜市は好きで、20年やってても町が変わらない。それは人が変わらないからで、市も自分らもだったが、小林重敬氏入ってできたのがまちづくり倶楽部。行政だけ、市民だけではだめだという。
森美術館の南条氏が最初にクリエイティブをやってBankART池田氏がやっている。ここで、文化芸術をやる、歴史的建造物、というのは結構だが、金になるのか、と疑問に感じたという。だから水上交通に燃えている公安の人がインナーハーバー構想をやり、中田市政は姿形がいいだけでやってることは人気がない、ということで明るい未来を語りませんかとアプローチしたという。港は3%くらいしか開放されておらず、公安機能で入らせなかったのを開放する。
水上交通を快適な「ド」がつく金持ちにやってもらう。飛行機とかをもっていて、その人たちが来れば芸術も売れる。本当の意味でも国際都市になる、と野望を語る。しかし、来るのは中国からだけ。都会、商業、公害がないといえば日本しかない。しかし日本は鎖国であって、日本人のためにある中華街をつくったのは横浜だけ。サンフランシスコにあるのは中国系アメリカ人とかのためにある。
お金をもっている人が住む、そういう環境をつくる、というのが主旨か。

これで事例紹介は終了。

会場に来ていたシティガイド協会の島田氏にコメントが求められた。氏は歴史的建造物を中心としたとりまく環境に目線がが行きがちだったが、今日は幅広く聞けて興味深かった.とコメント。
コメンテータとして壇上に上がっていた水沼氏は、気がつかなかった横浜の魅力があった。自宅は湘南で、大学が神奈川区にあるが、地元を愛しながら横浜とともに歴史があるが、将来に向かって濃くなっていく印象を受けた。新しいものを過去の上に蓄積しながらつくりつづけていく、と語った.
ここからは総括としてプレゼンターの意見が順番に発表された。清水氏は同じ歴史でも民家,洋風,里山馬車道などいろいろあったとコメント。
宮武氏は野毛から元町だけが横浜で、それ以外は横浜市なだけというのを聞いたことがあった.開講からはじまったこの歴史を心に留めてほしい、と。
池田氏は法人化されて今日のような会があったのがうれしい。問題を解いてきた歴史がある。人口組み替え、解くことをやってきた、問題がわからなくなっているのではないか、青葉区とかのひとともどうやって横浜をつくっていけるか、と未来を語る。
深沢氏はみんな元専業主婦。その市民感覚も役に立ったのでは、とまちづくりに対するアドヴァイスを投げかけた。
山本氏は残そうとしているのが近代、ということは今は近代ではない。俺は近代か,自分の問題になった、と発言.
菅氏はヨコハマと湘南はオンとオフであり、コインの裏表。横浜、湘南で取り組みを連携していくきっかけになればうれしい、と活動の場、視野を広く提示した。
近澤氏は金田さんという花を贈る運動をした人が、潤いあるまちづくりをした人がいた。日時計をつくり、残った。こういうものは都市の記憶だから残すという金田さんの鶴の一声だった。その都市の特色であり 人間を楽しませるためにやっている。象の鼻でピクニックをやろうと。誰が来てもいいものをやる、と。

最後に閉会のあいさつとして、監事の中村氏から。氏は3代目ハマッコで、横濱を一言で言うとというのをテレビなどで聞かれたことがあり、そこで「こどものおもちゃ箱をひっくりかえした」と答えたことがあるという。古いもの、新しいもの,高価なもの、そうではないものが混在しているという意味で。
横浜は360数万人の都市になった。書き方で4つに分かれる。「横浜」は外側の郊外、「ヨコハマ」は中区西区、「YOKOHAMA」は中華街、みなとみらい、緑区、ドイツ人学校があるようなところ、「よこはま」は鶴見、旧東海道筋。それぞれが微妙に違う。ヨコハマヘリテージはそれらをあわせておたがいに楽しい横浜をつくっていこうとする会。これからどうしていこうというのはアンケート用紙などでこういうことをやれといってくれば一つひとつ解決していくと、語った.