・LRAJセッション編レポート

Live Roundabout Journal 「メタボリズム2.0」@INAX:Ginza 
出演:藤村龍至 濱野智史 酒井康史 池上高志 磯崎新 連勇太朗 岡端喜 李明喜 藤本壮介 東浩紀 倉方俊輔 南後由和 黒瀬陽平 橋本純

第一部
第一セッション 「イントロダクション」 藤村龍至×濱野智史
メタボリズム2.0」というタイトルには、都市と作家性の乖離があり、都市からの撤退、撤退のパラダイムのままという問題意識がある。
つまり、60年代と現代状況の重ね合わせによる対比ができるのではないか、1960年代のメタボリズムには「社会工学」という思想の背景があり、それが2010年ではメタボリズム2.0では集合知という背景があるのでは、という仮説。

それと接続させながら、藤村氏の「超線形設計プロセス論についてとその応用」がプレゼンされる。
魚の発生過程のような建築をつくれはしないだろうか、という疑問から始まり、「UTSUWA」ではゴールイメージをもたない、条件の洗い出し,蓄積が説明される。一つの形態へ粋,描いていたわけではない結果へ。次第に形を提示,フィードバックを重ねることによって意味を重層させる。
また、「ビルディングK」のプレゼンにおいては街並の中でより自然に近づいているのではないか、と。続いて、住宅、オフィスビルと作品を提示し、コンテクストの条件を拾いだす、コンテクストと形態の不適合を取り除くことを説明。
超線形設計プロセス論の原則はジャンプしない、枝分かれしない、後戻りしない、である。それはプロセスのドライブであって、一つひとつの手続きを繰り返して重ねているにすぎない。プロセスごとに問題が発見される。最終的には20ほどのパラメータが発見されている。
提示したパラメータでは検索過程と比較過程と区別される。
「超線形」の効果は固有性をより正確に読み込んでいける、複雑性をより確実に構築することができる、スピードがあることである。

次に教育の応用について。カナダ、ブリティッシュコロンビア大学大学院での例。Do Not Think, Do Not Imagine, Do Not Look Backの3つをプリンシプルとして提案し、講義をおこなたという。

さらに過去の議論で濱野氏の指摘で明快になった点があるという。それはアルゴリズムで設計するのでなくアルゴリズミックに人間を動かすということ。ウィキで外部リソース、グーグルでいいと思ったページにリンクをはるという行為で人間を動かす事で結果を得る。「超線形」はむしろ、そのシステムに似ているのではないか、と。

そこで、情報社会的な意味での実践に共通点があるとする藤村氏は、アルゴリズムアルゴリズム的な設計を対比する。アルゴリズムは、種から発想されるグレッグリンの活動は、自動生成、切断が取り出せる。対してアルゴリズム的設計は、グーグルから発想され、MVRDVの実践として集合知と蓄積というキーワードが取り出せる。この対比を人間と機械の関係として考えていく。

濱野氏がまだ到着しないため、藤村による濱野プレゼが行われる。プレゼン内容はこの一年を振り返るものである。
2009年2月に浅田彰氏、磯崎新氏などによるアーキテクチャ議論があった。情報化進展に伴って、批判先にイデオロギーがない、アーキテクトの不在が問題化する。そこで濱野氏から自生的秩序の淘汰の中でアレグザンダーやメタボリズムは積極的に新陳代謝を促進させることを志向したが、メタボリズムの生物メタファではなくプロセプランニング論に着目する。

メタボリズム1960年と2010年は、以下のように対比される。すなわち、自生的秩序としての都市とインターネット、新陳代謝の対象はモノと情報、マテリアルとヴァーチャル、そして情報環境には「成長」と「切断」がなく、「永遠のベータ版」と「淘汰」が存在する。

さらに、1960年に存在した磯崎新という批判的アーキテクトは2010ではいかにして存在するのか、リアルとヴァーチャル、フィジカルとメタフィジカルの落差、身体性との関わりはどうなるのか、都市、社会のヴィジョンは、メタボリズムのヴィジョンはどう描けるのか、という問題が提起される。

「設計/デザインを考える」ではグーグル的建築家としての藤村龍至、組織でもなくアトリエでもないこと、模型という人力のアルゴリズムを使用していること、中間項であることが確認されている。そこでは、メタボリストとしての藤村、リアルとヴァーチャルをの落差を埋める媒体としての模型などが挙げられた。

そして、最後の課題として都市のヴィジョンというものに対して「AAR」で批判された濱野氏の論考は、限界を突破するにはどうすればよいかという可能性を模索するものでもあった。
ネットワークを介した自動生成都市であるが、都市にはコミュニケーション相手はいない。そこで濱野氏は「クライアントを構成せよ」という。集合知と民主主義2.0の可能性である。

ここで会場に濱野氏が登場する。
主なものをピックアップしていくプレゼンが開始。モノの成長は情報化の爆発に現代にすりかわり、それをメタボリズムとしてのモノの成長が今のヴァーチャルの乖離をどうとらえるか。
設計者の主体を捉えることも課題である。

また、都市のレイヤーではグーグルなどによって様々なツールが開発されている。「グーグルストアビュー」はショッピングモール内でされている。ストリートビューをSC内で行ったようなものだ。「Foursquare」はリアル足跡、つまり自分がどこにいたのかを表示することができる。「microsoft photosynth」は、個々人の写真で3Dを構築するという集合知的なツールである。
AR(拡張現実)は現実空間にオーバーレイして情報を映し出す。

濱野氏は、この概念は既に磯崎新氏によって提出されているという。「見えない都市」である。記号の流れで都市空間は無数の計画的可能性に満たされる。非実体的な動的モデルを前提に都市を設計する必要があり、見えない都市が見える化してくることが重要であるという。
つまり、ツール、集合的無意識を踏まえて新しい都市をえがけるか、である。

ここで濱野氏のプレゼンは終了し、第一セッションコメントが東浩紀氏から。
濱野氏のプレゼンにかなりの興味を示し,東氏の問題意識と似ているとする。集団的欲望数理モデルで把握できるだろうとする一般意志というものがルソーの社会契約論であるが、それでは静的なモデルになってしまうという。政治過程には欲望の変貌があり、集団的合意形成では欲望的が大事であってコミュニケーションが大事ということになる。つまり静的な一般意志モデルと、ダイナミックなコミュニケーションの対立があり、そこで氏が考えているのがダイナミックなコミュニケーションから生成する無意識を集合できるのではないかということ。ツイートから絶えず生成する無意識を把握できるのでは、ということである。濱野氏が挙げたいくつかの例は新しい数理的均衡への点であって、今までの一般意志とは違った一般意志2.0みたいなことを言えるのではないかと発言した。
さらに、表層と深層の二項対立で考えるのではなく、それがいかにダイナミックに混ざるモデルで考えなければならないとした。


第二セッション 「媒体から方法へ」 酒井康史/連勇太朗
休憩を挟み、酒井康史氏と連勇太朗氏という慶応義塾大学SFCの学生によるプレゼ。
SFCの「環境デザイン」という講義で藤村氏と接触したという。
この講義ではプログラミングを教えた上で設計をするという。オーセンティックな設計製図ではない教育を受けた学生である。
ここからコンピュータをベースにした設計手法に示唆に富んでいるのではないか、と藤村氏。

まず、酒井氏のプレゼン。自身の修士論文を発表した。
プレゼンの序盤はファンズワース邸は幾何学的、サヴォア邸 幾何学だが複雑など模型写真を提示しながら印象を述べていく。
図形の粋を出ているか,単純な形に窓などの要素が入ったらどうか、球とはどっちが単純なのか、様々な形でどれが複雑なのかどう複雑なのか、円柱、円錐、様々スタディしていく。仕切り、ドア、切妻、回転だけでかわるのではないか。自己相似形はどうか。
フィッシャー邸、イームズ邸なども登場した。

ここから、「どういう複雑さを得るのか」「複雑かどうか」それを定量的に表現できないか、というのがというのが氏の研究である。
様々な形状の形態をグラフに分布させる。つまり、ある形状を一点に立った時に全体を把握できるかを縦軸、多視点から、すなわち任意の2点でみたときに同じようなのか、それとも認識が変化するのかを横軸としたグラフにプロットする。

角度を変えると複雑性が増え、全体形を把握するのが困難であるが、その計算は認識を3つにわけることで行っている。つまり、「みえるか いけるか つながるか」であり、「みえる」については見える/見えないの2つの認識があり得る。それが3つで8種類の認識状態が生まれ、各点の結果として出る。そして次に点と点の間に「壁」がある場合「見えない 行けない つながらない」となり、0/1で表現すると111となる。

ファンズワース邸と 、イームズ邸と が似ている複雑性であるという解析結果がでたという。

ここで酒井氏が行った研究は、「コンピュータライゼーション(自動化)とコンピュテーション(計算をする履歴)/本人のHPにスケッチあり」であり、情報化のポイントはコンピュテーションである。つまり、人とコンピュータの二項対立をしない。最終的にはスケッチが大事である。


次に連氏のプレゼ,「アーキコモンズという方法」。
2つのプロジェクトを紹介する。アーキコモンズとは造語であり、建築と建築の関係性(コモンズ)、関係主体間の共有構造を意味する。

プロジェクトは、WSのプロセスとそれに連動した空間の変化が特徴である。内部、あるいは内側に入り込む。コミュニケーションの連鎖を通して共有するものをつくっていくか。
アーキコモンズはプロセス共有状態、情報蓄積状態、技術系の開放状態という3つの状態に分けられる。

1つめのプロジェクトは長野県の民宿で行った「はばうえプロジェクト」である。観光局から依頼を受けて行ったという。
スキー客の減退から夏の利用者増加のために行ったものである。スキー客ではなく26歳以上の女性がターゲットであり、スキー客用の価値体系から新設ターゲットの価値体系への移行をWSを繰り返して行う。
氏は2枚の写真を提示する。数畳の部屋で、仏壇が消える前と消えた後の写真。ここで表れているのは共有意識で仏壇が消えた、ということである。地方で仏壇が消えるのは大きな事であり、お互いが共有する価値体系の中で空間が変わっていく。

また、「はばうえスケール」なるものをつくり、寸法の価値体系をつくることも行っている。オーナーとデザインをアウトプットする中でモジュールをつくっているのである。

空間を構築するのではなく構築した事でどういった正解を得るか、というプロジェクトであった。この民宿は、「新民宿宣言」として現地で利用されているという。

2つめのプロジェクトは「北沢プロジェクト」である。
オーナーがウェブを使える人であったらしく、ウェブを民宿でやったことを木造賃貸アパートで可視化していくプロジェクトとなっている。
スタッフなどの携帯からは個人が重要だと思った周辺情報の写真が送られてくる。持続して情報を蓄積し、オーナーと価値だと思ったものを共有できる。技術系の開放という意味で、ホームセンターで買えるものを使用しているという。

ここで示唆しているのは、建築家の仕事のプロセスがコンピュータを使って形式化されていることである。外部化できるようになり、いかに関係主体間を連鎖していけるかを徹底して、ウィキ,ツイッターのようなツールで個人ではなく関係性の総和で建築をつくれないか、ということである。ここでは、コミュニケーションプロセスをいかにつくっていくか、ということの布石になることはできないかという主張があった。

終了後、濱野氏のコメント。レッシグはネットで重要なのはプロセスを共有できることと言ったが,著作権と対立するとも言った。しかし、普通に聞くとアーキコモンズはアーキコミュニティである。
コミュニティという響きにあるイメージを取ってコモンズにしているということであり、コミュニティは人の集まり、コモンズは知の集まりであるということを指摘した。

次の南後氏は、酒井氏は経験値を単純幾何学モデルにして生成、解析する、東京都現代美術館の池田亮二氏の展覧会とのつながりを指摘した。連氏については、コミュニケーションの連鎖で対応しとけばいい、というよりツールの幅を広げていく、よりコミュニケーションの連鎖が担保されているとコメントした。
これは第一セッションの「超線形設計プロセス」に対して連氏は出来上がってまでも視野にいれていることの差異であった。両者のプロセスとどう重なっていてどう違うのか。

倉方氏は連氏のプロジェクトはまちづくり系の話であるができたものをどう合意形成するかという話であった。テクノロジー関係ではウィキでの情報共有、コミュニティ、物理的近接性がキーとなり、コモンズはそれを排除し、ミクシーのように近接性ではない粘着度は高くなる。コモンズが内包する意味には非常にネイチャブルなパターンがあると発言。
酒井氏は0と1に表せるものに対して1つの結果を落とし込む。アレグザンダーの「形の合成に関するノート」ではつながりの可能性と同時に0と1の還元による新しい合意形成がみえると発言。
しかし、基本的には藤村氏は作る話であり、メタボリズムはどう持続していくかという話であった。つまり建築はどう考えても動かないものであり、合意形成の上に建ったとしてもそれ自体を支える基盤が変化する。それを踏まえて磯崎氏の論考などを踏まえる必要がある。つまり、メタボリズムは動ける/動けないという問題系で頓挫したのだから。ビルディングの話なら可変性、アーキテクチャであれば可変性をどう持ち得るかという議論をしなければならないと指摘した。


第三セッション 「弱い「あいだ」のあり方」 藤本壮介/李明喜/岡瑞起/池田高志
まずは池上氏のプレゼから。
複雑系の科学をしている研究者である。時間軸を投影する。建築を含めて科学には時間軸がはいらない。そこに時間を入れて考えるのが複雑系の真骨頂であるという。
いくつかの映像を提示。建築物の破壊されている映像のようだ。構造物を壊すということは構造の問題ではなくタイムスケールの問題として考える事ができる。

そこからタイムスケールとキーストーンの話に移行。生態系を構成するバイオマスの取り除いたときのインパクトの強さがあるが、どういうものが生態系によってとってインパクトが大きいものなのかわからない。それがキーストーンである。
生態系の全体から生まれるのか、種の特徴なのか。どういう種の生態がいなくなると生態系が壊れるのか、ということである。個体数が遅く動くものと早く動くものの間にある中間にあまり動かない生物がいるとすればそれがキーストーンの候補になっているのではないかということをやったという。
つまり、時間スケールの問題であり、早く移り変わるものと遅く移り変わるものが独立ではなく繋がっているため、1つのタイムスケールをいじることで様々なところへ波及することができるというものである。

2つめの議論はつながらない時間軸をつなげることである。
Way Things Go というアート作品を提示。ピタゴラスイッチであるが、ローカルにあるものをその時々でつくっていく。ピタゴラスイッチは1万回やったら9999回は失敗することをやっている。つまり、アートや人工物は成立が稀なものを追求している。本当は繋がらないものをどうやってつなげるかを考えようというのである。

3つめはモーメンタリーナウ。「今」に対する感覚意識である。
「ロングナウ」という言葉をダニエ・ヒルズという人は言ったが、「長い今」ということ、100年後に生命はどうなっていくかを考えた。今はコンピュータが作り出したものに制約されて何十年後を考えない。一万年刻む時計 をつくり、砂漠に埋め、未来に対する遺産を作り出した。
建築に対してどのくらい長いタイムスケールを考えるか、時間のコンセプトを集約して意識的であるべきだと建築へメッセージを送った。

濱野氏はコメントで自著の「アーキテクチャの生態系」で後半では時間がテーマになっていることに言及。グーグルなどでは時間性を実現したサービスがあり、時間の問題を意識化することで、時間性を実現した都市、人工物を考えていくことが重要だとした。

次のプレゼはピンポンから「強いネットワークから弱いネットワークへ」。ピンポンはデザインを前期デザインと後期デザインと捉えている。前期デザインとは線形世界のストリーテリングであって、後期デザインは非線形な世界での経験の創造である。

後期デザインの実際例として、ウェブの実践がある。ページランクセマンティックウェブである。
ピンポンは、ページランクでも、ヤフーの審査制ではなく、リンクをはる行為を判断にするグーグルでのアルゴリズムに着目する。結果として、ページの重要度にユーザーが参加している点である。肯定的であれ否定的であれ数学的には固有値であり、ページの重要度が7つの濃度の重要度として表れる。

もう1つのセマンティックウェブとは、情報に意味を付加することでコンピュータが自動的に処理するものである。「ピンポン」などの文字列を自動的に処理できる。すなわち、メタデータオントロジーでできる。「ピンポン」では、メタデータ:スポーツ、オントロジー:国や組織で様々となる。その中で、様々な差異を無視して作成した固定的なオントロジーを強いセマンティック、コンテクストで変化するオントロジーを定義できないものを弱いセマンティックとしている。
これらを基盤として、特に「弱いセマンティック」を背景として実践を行っていく。
ウェブ工学 人びとが作成する wordnet
環境におけるログを集合させ、抽出、意見ではなく記述として扱い、意志の軌跡を可視化、環境に重ね合わせるという手法をとる。

より動かすためのデザイン案として、多摩美術大学のWS、「つくる図書館をうごかす」がある。
ツイッターで収集、行為のログをマッピング、ピンポンマップで可視化する。そのピンポンマップと実際の場所を往復し、アイデア作成,デザインを行った。
パラメータは現実の行為、非現実の行為、時間区切りであり、38個のパターンが表出。時間構造との可視化を行い、軌跡を見る。一般意志ひとつの表れではないかという。
現状の導線が3つしかないが、6つ新規で見つけ出し、多摩美図書館の書籍の増補ページをつくることと兼ねて学生がデザインして導線を作った。

次に紹介されたはこだて未来大学のプロジェクトは、ピンポンの長期的なプロジェクトである「オグメンテッドキャンパス」の第一弾である。
ピンポンでのプロジェクトはツイッターを利用した新しいものであるが、このツールを使用することでWS以降も使えるツールとして実装する。
デザインとつかうことのあいだはシームレスにつながる。はこだて未来大学では専用の地図情報の入ったアプリが用意され、位置情報とともに投稿された行為を収集、分析、ピンポンマップで可視化。地図とTLが同時にあらわれる。エンジンとピンポンウィキを組み込む。最終的に実空間と情報空間をつなぎ、デザインする。

はこだて未来大学の後は東大でも行うという。弱いネットワークを上位の弱いネットワークにつなげていく、それが「オグメンティッドキャンパス」である。ピンポンは、この弱いネットワークから生まれる経験を創造することが空間デザインであると捉えている。

濱野氏はコメントで、弱いキーストーンをどうデザインしていくか、という池上氏のプレゼとの類似性を指摘した。

藤本氏のプレゼの冒頭は池上氏と同様に複雑系に興味があったというものから開始。弱い秩序に興味をもち、コルビュジェのドミノに変わるものはないかと模索しているという。

段差のお化けのような住宅は、座る机になったりと、場所で板と板で局所的に意味が機能していく。コルビュジエのドミノのように明瞭に、強くて定義していくのでなく、人が関わる事で建築全体のシステム、意味合いが変化していくものはつくれないか、ということである。

熊本につくったバンガローは、コミュニケーションが生まれるどろどろの場所の塊みたいなものが立ち上がってくるイメージであったという。

北海道の医療施設では、古い集落をちゃんとした方法でつくれないか、か弱いネットワークを模索したものである。四角い箱をランダムに置いていくのだが、ランダムさ故に精密に関係を追いかけていける。しかしデザインしたようには見えない。

入れ子状の住宅である「House O」では、内外が緩やかにつながる。三重になった空間のそれぞれには、絶対的な部分が何もなく、相対的な関係だけでできている秩序がある。
透明不透明が常に入れ替わる。屏風絵をみると、それぞれのタイムスケールの出来事を白い雲がつなげており、この建築でもその枠組みのようにいろいろなタイムスケールをつなげる存在として,建物はそこにあり続けてどうしようもない存在であり、雲のように周りにある関係を関係づけていけるもののように、その間にある関係を更新し続けていけるのではないかという。

東京アパートメントは、ダーウィンの進化論のように、イメージのはあるが次よくわからない、なぜだかわからないができてしまった空間をつくりだしたという。


東氏はピンポンのプレゼに対し、グーグルのページランクはリンクするときは肯定否定両方され、フロイト無意識のように肯定否定がない、ゆえに正確に無意識を取り出しているという。反応したという事実だけだからである。
池上氏の時間性に関するとデリダはそういうことをよくいっている人であって、フッサールは人間の意識が複数ののリズムがつながりつつはなれている外れつつつながっている構造で人間はできている、現象学の批判者であったという。

橋本氏は床とか壁とか制度的に強いものをどうにかしていくのが若い人の傾向であるというコメントをした。

池上氏はプラベートからパブリック、有限の幅を持ったものとしての時間としても関係があると述べた。


第四セッション 「ただプロセスのみが時代を超えていく」  磯崎新
プロセスプランニング論の情報環境における批評性、文脈に対するフィードバックというキーワードが藤村氏から述べられた後,磯崎氏からのプレゼが始まった。

思想地図に収録されたシンポジウムの後,北京の清華大学に訪れた時に、学生が氏の80年代の本の海賊版をもっていた。北京において、80年代の学生は古いことばかり習ってでてくるが、重要なポストに位置するという。再教育の場でのプレゼ、つまり北京で講演を行った際に、完全にずれてしまっている現状を前提に主内容のプレゼを始めた。

まず氏は、都市は定義に過ぎない、都市は実体ではないという。つまり、その深層にあるものと時代変化として区別すると、
⑴都市/計画/国家/city/19世紀
⑵大都市/規則/資本/metropolice/20世紀
⑶超都市/交換/情報/hypervillege/21世紀
となり、これらを考えないと都市にならないのではないかという。
こうみてみると、北京は19世紀都市コンセプト(国家)が残っている、化石のような都市であって、深圳ジェネリックシティのなれのはてであり、上海は古い時代から新しい時代への経過のある都市である。無茶苦茶な街だが現代的に機能している。つまり、人口何千万人かは市の当局もわからないが、みな携帯をもっており、同じ格好をしている。携帯を有効につかっているのはハイパービレッジである上海である。
ここで最初の議論に戻ると,時間はコントロール、ビルディングはボックスとして捉えられている。そのタイプとしては、
⑴パリ/国家ヒューマンスケール/ボックス/歩行
コルは昔のシステムは考慮しない輝ける都市を提案したが,コルのこれは19世紀の改良であって、都市ではないのではないか、というのが氏の解釈である。
⑵スーパースケール/マストランジット/超高層/スピード
サンテリア未来派は21世紀のメトロポリスを言い当てているコルより新しい、と氏はいう。建築物が駅、飛行場など都市のノードになると組み立ててたから重要であるという、解釈である。オスカーニーマイヤーのブラジリアでは、ジェット機の形が選択される。
ここで、1950、60年代のメタボリズムに翻る。菊竹清訓氏の「海上都市」で全て説明可能であるという。磯崎氏自身の空中都市は渋谷上空に計画されていた。「システムが自走(自壊)する/1962年」とプロセスだけが信じられる、プロセスプランニングのコンセプトに至ったが、関係あるが入りたくなかった理由がこれであるという。
同じ時期に黒川紀章は、フェリックスという造形でメタボリズムの基本的イメージを提出、クリストファー・アレクザンダー は「都市はツリーではない/1965」で結果としてはツリーにしかならないと述べた。東京計画1960なども挙げられるが、「ウォーキングシティ」が最も分かりやすく、アーキグラムのロン・ヘロンの未来都市プロジェクトを挙げた。
しかし、「同世代にユートピアについて書くことは犯罪である」と言い切ったセドリック・プライスがいた。メタボリズムなどは20世紀が求めたユートピアをつくっているが、それ自体が犯罪である、と。プライスもアーキグラムと同伴はしており、磯崎氏とメタボリズムグループと同様に批判を仲間に行っていた。
メタボリズムに対しての批判」は60年代に同時代的に既にあったことを再考するべきであると氏はいう。
以上の問題は全て2段階、すなわち⑵の都市把握の範疇であった。第3段階は
⑶フラックス/場所はウェブ/空間はネットワーク/ビルディングはモナド=点/時間は瞬間に還元
となる。
この都市像の中で、「建築の解体」世代で生き残るコンセプトはアーキズームの「ノンストップシティ」であるという。彼らはインテリアだけが都市デザインであり、交通的にも環境的にもコントロールされたという意味を明瞭に示す。彼らがフィレンツェ大学の学生時に、アルノ川の氾濫があり、予想外の天災が日常にはいるそのような事件に遭遇していた。これをビジュアルに展開していたという事は今日重要な問題を孕んでいるのでは、という。

その後,90年代に入り,阪神大震災、オウムの事件が起こる少し前に,「海市プロジェクト」が開始される。ICCギャラリー最初のWSであったが、めぼしい成果はでなかったという。

その後は2009年にサンリンプロジェクトを行い,上海エキスポの横に都市計画コンペに参加している。
これはセミラティス、パタンランゲージを日本の都市空間を調査してどう組み込むかを考える。リゾーム型システムはどう保証されうるか、コンピュータを介して組み立て、記号的にこの地区の素人、市民が自分の意見をアクセスしてそれが具体的なプランに変換していくということをネットを介してできないか
やろうとしたときに「グレートウォール」という中国全体のブログをチェックするシステムが始まった。グレートウォール92というワインのトップブランドがあるが、特に意味はなく、オバマがジャンバーの広告をとりさげたことによってコンセプト自体が炎上してしまった。
それでもしなくてはならないことであるので、ブログを寄せ集めて炎上した。次にパタンランゲージのようなこともしたが今まで出たコンセプトしか出て来ないから炎上、キャラクター的なもものをしたが、不思議なものしかでてこない、普通がなく 炎上。次にニコニコ動画のキャラクターの自動生成はどうかということをやったが、炎上。60年代の「見えない都市」に、フラックス、モナドを入れたものもやったが、蒸発。また炎上し、計画でもコントロールでも中国を組み立てる事ができないということで都市から撤退した。

「都市の変貌は大きな亀裂から始まる/1962」コンピュータが違う形をつくるのではないかいとフラックスストラクチャーで最適解をコンピュータで求めることを行う。漢字アルゴリズムは亀裂からはじまっている。上海はコンピュータにやらせた。アナログではないデジタルで。サイバネティックエンバライメント(1967)当時の情報理論大阪万博で実現されたが、そのコンセプトを今に応用できないかと。上海万博の横に宇宙博物館、CCTVはいずれアイコンになるものが必要であった。
他に、直近のプロジェクトを紹介。ボローニャ駅/2010。長州/エコロジカルビジネスディストリクト/マスタープラン/2010
ejust project /2010はクラウド→雲でレイヤーリングし、屋根,システム,交通、ランドスケープの動きの中にシステムデザインとビヘイビアをむすびつけるコンセプトであり、アラップと共同した。

コメントで倉方氏は磯崎を介さずにどう集合知を形成するか、建築も主体があって竣工年があってというものではないことを建築に持ち帰った。原因があって立ち上がってもそれは過去の原因 アルゴリズムによって出来上がったものに新しい意味を与えられる事。

それに対し磯崎氏は伊勢神宮論を語る。起源を語るな、起源オリジンは隠蔽されている。ビギニングを反復することができる、ビギニングを語る事はできる、と。

倉方氏は人は何かの根拠を求めるとし、今日の連氏などは使い方でもって更新していく。動かないものに対してアーキテクチャの解釈はできないか、別の方法でどうできるかと問う。フィジカルな前提が情報技術が実装された現代で可能なのか。
設計論をつなぐ時に解析はできるが、その知見を建築でどう構築していくかであるとする。しかし藤本、磯崎のような成功してしまっているものとどうつなげていけるか、と議論を収束させていく。