・建築家・本野精吾から見えてくるもの

建築家 本野精吾展 ―モダンデザインの先駆者―
建築家・本野精吾から見えてくるもの

基調講演/藤森照信
氏の中での本野精吾論は、石田潤一郎氏と本野邸、鶴巻邸を回る中で固まっていったという。

当時、歴史主義というのが基本であったが、19世紀後半から批判が出て,20世紀は科学技術の時代だから歴史ではないとされた。1920年代にはアールヌーヴォーが出て、初期モダニズム、四角い箱に大きな窓、表面は白、ホワイトキューブになっていく。
本野精吾もその時代を生きてたのだが、忘れられていた。
その責任は歴史家にあると氏はいう。新しいものは西洋にある、といった固定観念が歴史家などの中にあったのである。アールヌーヴォーの先を見ようとしたホワイトキューブから過去をみるとすーっとすんなりとみえるのだが、そこから本野ははずれてしまった。峰がわからなかった時期を捉えようと言うのが氏などの歴史観であって、そこに本野精吾は重要である。

犯人がわかったあと推理小説を読むようなものであって、結果がわかってから歴史をみてもおもしろくない。したがって後進国ではなくなったとき、レーモンド、丹下のレベルで世界と並ぶ後進国ではないならわからないまま書かないとおもしろくない、と氏の歴史観を踏まえながら全体を語り,本野を相対化していく。

本野の作品をみると、三菱地所時代にアールヌーヴォから出自がみられる。転機として京都工芸繊維大学の教員になったことが影響する。というのも、留学をしているからだ。
佐野利器が本野に言われてピーター・ベーレンスのタービン工場を度々みにいったという記述が残っているという。

AEGのタービン工場は当時アールヌーヴォ以降のデザインをどうするかという流れがドイツにあっ田中で重要な作品である。装飾を捨て,デザインをどうするか。
ドイツ工作連盟のムテジウスは日本でデビューした。ムテジウスは機能主義であり合理主義であり、工業力をつかった機械的なもの。そういう建築はどうつくるのか。美しさはいらない。美はついてくる,と言う態度を取っていた。機能と合理だけなのか、それとも何かいるのかという議論。

本野や佐野は「力学が新しい時代の美しさではないか」、と考えていたという。そこでAEGをみる。氏はAEGのスライドを見せる。鉄とガラス、面としての美しさ。

帰国後、本野はベーレンスの影響を受けたような仕事をする。
佐野、本野は100年前に今の工場のようなデザインに感動した。

ベーレンスは日本からきたと言えば会えたはず。会っていたという証拠はないが、会っていた方がおもしろい、想像力を働かせれば歴史がビビッドになる。

本野は帰国後,西陣織物会館をつくる。今みると普通にみえる。つまり今に近い。建築界から笑われ、マッチ箱の上にピラミッドと表現された。
科学技術の先に何があるかはわからないが、幾何学をつかった。
アールヌーヴォのあと、ベーレンスに着目、持っていた問題意識、機能と美を追求。

氏は本野邸をみたときに安藤忠雄だと思った
当時鎮ブロック―中村鎮が開発したコンクリートブロック― 本野はコンクリートのブロックをそのままだす。目地だけみえる。形状をキュービックにみせる、仕上げはコンクリートむき出しにしている。コンクリートと言う表現に固有の表現があると考えたコンクリートに最もふさわしい技術を表現があるはずだ、と。

次に鶴巻邸。
鶴巻は工繊の学長だったという。

自邸でコンクリートをやったのが192年。
真っ当な建築家のやった歴史はペンシルベニアのコンクリート打ち放しをやっていた。窓枠まで打ち放していて完全にひらかないようになっていたという。

世界初の打ち放しはオーギュスト・ペレ、1923年。世界遺産になっている。しかし、どこまで確信をもって打ち話をやっていたかがわからない。日本ではレーモンドがもたらした。コルビュジエの打放しは1932年。

当時のコンクリートの表現は何か
先頭のペレに対してはコルビュジエなどは興味がなかったが、すぐ後ろを走っていたのが本野であり1924年、少し遅れてレーモンド1916年、コルビュジエは1932年。

藤森氏は、ある関西の講演会で、林昌二に本野精吾が本物だと言われたという。掛川庁舎のときに、コルの表現はまちがっている、つまりコルのデザインは型枠のデザインだといった。コンクリートそのものは型枠の表現でなくコンクリートの表現は本野邸なのではないかと考えたという。


次に宮島久雄氏の講演。
本野精吾の工芸図案教育について。図案科の教授としての本野精吾についてである。武田五一の教育を引き継ぎ、変化させる
装飾美術をモダニズムの方に変えたのではないか、と氏はいう。

参考にした1つがバウハウスであり、1934年と1932年のわずか2年で教育体系が変化している。34年には草案に「写真」がはいっている。
「想」には模倣練習、記憶練習、工芸思想訓練がはいっている。「技」では絵画と言う表現ではんく描写の練習となる。
1923年のバウハウスの展覧会で図録に載ったものに影響ををうけたのでは、と氏はいう。

科学の成果を取り入れるエビングハウス
無意味な単語の忘却の時間的変化 最初程早く忘れる 記憶力の訓練があった。3分、5分,10分と順々に面、線などで構成された図形を記憶させる講義などをおこなっていた
本野の論文には実験心理学などに関しても記述されており、興味をもっていたのではという。
錯視のことも論文にでてくる
模倣連練習は材料描写であり、同時に質描写であり、観察力、記憶力、緻密性が求められるとしている。
「技」と「想」は連動している 製図基礎と実例模写、絵画基礎と写生、図案基礎と模倣再製のように求心的な教育となっていた。

「建築的分野はよいが、工芸分野では技と想の分離が困難 図案科は解体して各分野の製作場で技と想を練るのがよい」


「中村鎮ブロックの可能性 統合化された建築技術を求めて」  関西大学 西澤英和氏

中村鎮は大学二年の時点で「建築ト装飾」という雑誌のようなものの編集などを行う。今和次郎伊東忠太などの影響(早稲田第一期)(中村は二期)があったのではないかと氏はいう。1921年、31歳で「中村式鉄筋コンクリート建築」が認可された。

中村式鉄筋コンクリートブロックの特徴は、礎石系ではなく、プレキャストとして,型枠のように考えていたことである。
大正9年にはこだてで大量の仕事を受注。北海道の函館が中心であり、火事が多かったので、耐火としてやったのではないかと氏は推測する。

旧目貫商店は大正時代にコンクリートの4階建てをやっていた しかし鎮ブロックの露出などがあればかなり価値があったのでは、という。


氏は鎮ブロック実験を行ったという。そこで出た結果は圧縮強度が500をこえるものがほとんどで、今のコンクリートは200などであって、コンクリートは100年たっているから高強度になっているのかもしれない。しかし親水性がなく、防水コンクリートブロックに近い吸水性を示す。なので外壁にもちいられれほとんど劣化しない。ブロックだけで全て作ろうとしていた。しかしブロックでつくったところで、経済性の面で劣った。現場打ちより経済性が低い。

なぜ130もの仕事を受注できたのかは謎であるが、輸送費なし、現場で作り、スランプゼロ、建て方費が安価、ノッチにより精度が良、型枠が計量、鉄筋先行工法だからあとでかえられる。
外部仕上げなし、内部はモルタル仕上げ、高耐水性、種類が少ない。壁と床が同一ブロック。


次に笠原一人氏が座談会につなげるかたちでの活動の広がり,革新性を解説した。
本野精吾の父親は読売新聞の創業者であり、兄は社長であったという。
1906年の卒業制作のゴシック様式の建築であって、辰野金吾の基で教育を受けた。卒業後、三菱地所入社、三菱12号館などに関与、コンドルなどの影響を受けたのだろうと氏はいう。
武田五一に京都につれてこられたという。西陣織物館の竣工は1914年。東京駅が完成する時期であるが、同級生に明治生命館歌舞伎座の設計者である岡田真一郎がいたのにも関わらずモダンなデザインを行っている
ドイツ工作連盟モダニズムへの出自に本野は関わる。一方武田五一はイギリスに留学する。武田五一はアールヌーヴォ,セセッションであり、武田五一との関連は留学という数年の違いで全く違う。
1924年の本野邸では、中村鎮のブロックに耐火性、耐震性があることで震災をきっかけにわかる。表現でも新しい発想はあるが、本野邸はワンルームになっている、ブロックの間の隙間に暖炉の熱で家全体を暖めることをやろうとしていた導線を短くするために天井を低くするなど機能性、徹底した合理主義、モダニズムがまだみえていない

鶴巻邸には合理性だけではなく豊かさがある。京都工繊の3号館は山口文象の東京医師大学(1934年)より先にヴォリュームを表現したモダニズムの表現である。

1935年、必要最小限の実験住宅では管構造が合理性につながることをやっていたという。

緑丸菫丸という大阪商船の国内線は大阪神戸別府を結んでいた。そこでインテリアを担当していた本野は、時代を考慮すると最先端である。船は一般的に1925年までは外国に外注されており、28年の直前に中村順平にインテリアデザインが依頼された。
それ以来船デザインをやりつづけるが、橘丸では船体をデザインしている。

また、家具の近代化にも関わっている。ドレッサーの低さ、畳用のドレッサーなど伝統を加味していくデザインで、舞台デザインなども手がけている。
また、本野は南画など絵画も趣味としてもっており、南画をはじめたのは物事を瞬時に抽象化して捉える事にモダニズムとの類似性があったのではないかと指摘する。

ローマ字、エスペラント語の研究など常に新しいことに挑戦し、層言い工夫をこらした。革新性と実験性、モダニズムとは言えド広範囲で多彩、生活全体を研究とデザインの対象とする。一方で伝統と学術の街、京都を拠点にした 革新性と実験性の背景となっている。

次に座談会に移る。
松隈氏から歴史における本野のパースペクティブが提示される。すなわち、時代との巡り会わせ,京都と言う場所、モダニズムの幅,奥行きなどがあるのではないか、そこから学習する方が豊かなのではないか。本野精吾をみることによってモダニズムのもっている意味がかわっているのではないか、と。
同年代の建築家としては、ドゥースブルク、バウハウスのグロピウス、アスプルンドが3つ下におり、日本人では岡田新一郎が同期、本野の2つ下に渡邊節、安井武雄がいる。

佐野利器と本野について藤森氏が発言。佐野は耐震構造の基本を作った人で、芸術家に圧迫、建築非芸術論などで有名な人物である。佐野は途中から美を捨てるが、本野は踏みとどまる。本野をみることでモダニズムが問題とした科学性、機能性を徹底したということがよくわかる。本野はモダニズムが歴史主義を乗り越えるためのモダニズムで、モダニズムが掲げた問題を全て徹底してやっている。
しかし何か変だ、と氏はいう。一人でやっているのである。分離であったりバウハウスであったりとかは集団でやっていたからである。

宮島氏は当時京都に建築家というステータスも少なかったこと、関西にはメディアがないということをなぜ今まであまり知られなかったかに言及。

建築史家の石田潤一郎氏は本野の「一人である」ということ、藤森のいう本野の孤独感については、前衛性がありすぎた、個人の生活に則してしか考えてなかった、佐野利器の非芸術の対極にあるかのような存在であると表現する。
モダニズムは規範を求めるものであって、個人的なモダニズムはかなりねじれたものであって、わかりにくさ、幅の広さというようになってしまっているのでは、と。社会的使命感から開放されていた。

日本郵船博物館学芸員海老名氏は、船舶が注目を集めた時代であって、動く国土と呼ばれた。国を代表する建築家がデザインするのは当たり前で,村野藤吾、中村順平、岸田日出刀、前川國男もしていたという。船そのものは合理性の象徴であり,モダニズムの建築家からは規範だった。

西澤氏は体系化して理解するのは間違いを生むとした。武田五一、本野は個人色が強く、総合芸術として捉えていた。ダヴィンチ的人間には森羅万象が興味のあるもの。厳しい流れの中でそれを楽しんでいた人でもあり、あらゆるチャレンジをおこなった人であると評価した。

笠原氏もコル、丹下といった指標とは違う見え方を導いてくれる等身大のモダニストであると評価した。