・建築の際

「生命の際」@東京大学 福武ホール 伊東豊雄 福岡伸一 佐倉統
司会進行は建築学専攻M2の松岡康氏他大学院生が行い、企画概要を南後氏から説明があった。
プロジェクタに「建築家×異分野の専門家×情報学環教員」と提示しながら、福武ホールがソリッドな際の建築であること、赤門の際に立地していることに加え、シンポジウムのコンセプトとして諸学問の際を建築によって統合する、院生と教員の区分けの際を解体していくことを挙げた。事前取材、準備も大学院生がやっているという。また、「新建築」誌でのレポートも行う。つまり、準備からアウトプットまで大学院生が主に行っている。

次に今回のタイトルである「生命の際」の主旨が松岡氏から行われた。今回のゲスト選出の背景には建築家の生命のメタファーであるモチーフ、アールヌーヴォー、メタボリズムなどがある。
アルゴリズムなど生命を多層なレベルで扱う伊東豊雄氏、分子生物学者の福岡伸一氏、進化論的側面からの社会の位置づけを行う佐倉統氏の三者で、動的平衡をメタファーに留まらず、どのように作っていくか、ということを主題においているという。

そして、まず伊東氏プレゼが開始される。
伊東氏は25年程前から流動体としての建築をテーマにしてきたという。流れのダイナミクスと言う映像を提示しながら、建築が環境に対して渦のような役割をする建築はできないかと考えてきた。その思想の背景には流動的な都市空間がある。ロンドンのインスタレーション映像では、都市の時間変化を水の流れのように表現されている。

それをどのようにして建築に置き換える事ができるのかを思考しており、初期プロジェクト、1988年の日仏文化会館コンペ ではセーヌ川に浮かぶメディアシップというコンセプトでメディアとともに生起するエフェメラルな空間を志向した。最初から部屋があるのではなく、メディアに集まってきた人を囲む空間というイメージである。透明度が変化するファサードも提案したが、学生のものだということもあり落選したという。

しかしそのコンセプトは5年後、せんだいメディアテークとして実現する。「日仏」がなければ「せんだい」はなかった、と氏はいう。せんだいはゆらゆらとしたものを物質化するというイメージが先行してあるが,「メディア」「情報」というものを意識したものであったということになる。
平面の位置による意図的な温度分布の変化に加え,チューブはトランスポーテーション、視覚的関係のデバイス、アクティビティに関わる働き、構造体、キュービックなヴォリュームに貫通することで光の入ることで生命体のような働きを全体的に目指している。

「せんだい」のコンセプトはゲント市のコンサートホールで概念を拡張されることになる。ストリートのコンサートのようなコンサートホールはあり得ないのだろうか、という疑問からスタートし、敷地の雰囲気が建築の中まで浸透、洞窟のような空間、CGモデルを提示。いたって即物的、だからこそ建築として強いのでは、と思わせる建築である。

この形態は、同じモデルでの台中コンペで、実現に向かうことになる。無限に続くようなカテノイド曲線で、外部と内部の際をなくしていく。さらに、チューブが生命体のように働くにはどうすればいいかがこれからのテーマになると氏はいう。ソーラーパネルなどによって内外の際が断絶されていくのに対してフラクタルに細分化してくような建築を目指したいと語った。

次に生物学者の福岡氏のプレゼ。
氏は虫の画像を大きく映し出しながら分子生物学というミクロの世界をしているという自己紹介からプレゼを始める。幼少のころは昆虫が大好きの少年ルリボシカミキリをつかまえようと昆虫の世界に夢中になったという。しかし、氏はふと気づく。そうではない、誰も捕まえた事のない種を捕まえて図鑑にのせることが夢なのだ、と。なぜ学者は昆虫を集めるか、それは美しいものを記述したいと思うからである。生物学をやっていると、昆虫は新種はいないが,細胞、分子レベルでは未知のものばかり、ということでミクロな世界へ飛び込んだ。それからというもの、氏はさまざまな遺伝子を捕まえてきたという。

次に研究室のマウスの写真。氏はグリコプロテイン2(GP2)という高度な遺伝子を捕まえた。GP2はアンテナをもち、外界の何かを探っている。
この遺伝子はなにをしているかを荒っぽい方法で調べる。そのためにGP2遺伝子ノックアウトマウスというマウスをつくる。GP2情報を持つ遺伝子だけ取り出し,それを捨ててGP2のないマウスである。
決定的に記述するために作り、どんな異常が表れるかをみた。しかし、すくすく育ち、一向に異常が起こらない。子孫もノックアウトされているが、異常はない。正常をのものに見え、何もデータがでない。
そのとき氏はある言葉を思い浮かべた。
「生命は機械ではない、生命は流れだ」。
70年程前のルドルフ・シェーンハイマー(1898−1941)の言葉である。若くして謎の自殺をしたユダヤ人の学者である。シェーンハイマーは生命現象の動きを捉えるための実験をした。当時機械論的生命観が主流だった。つまり、内燃機関を生み出すためにカロリーがいる、食事はガソリンのように燃焼されると考えれば良いと思われていた。
彼はそれを分子、ミクロレベルで見極めてみようとした。全て原子の集合体と考えられ,生物と食物は入り交じってしまう。
原子の同位体を生物学に応用した。食物に色付けし、色のついた原子が酸化され、二酸化炭素として出てくるか,時間軸にそってみようとした。結果、意外なことにマウスの全体に広がり、同化した。体重も計測していたが、定常状態が実験前後で変化がなかった。そのときの彼の考察は、既にマウスを作っていた原子が融解し、新陳代謝していた、というものである。
つまり、分子や原子はずっとそこにあるのではない、物質的には全く入れ替わっている。生命は定常状態を維持していると考え,「動的平衡」し、恒常性が維持される。原理的仕組みは生命を構成する細胞は1つの機能を持っているのではなく、パズルのように互いに他を規制するようにつくられ、相互関係的な関係にある。GP2マウスが異常を表さなかったのは実験の失敗ではなく、成功だったのである。

生物には脆弱性がある。ここからGP2の機能がわかってきた。アンテナが何を探しているか、それはサルモネラ菌などの凶悪な細胞を取り込み,免疫応答反応を行わせることができる。実験室という環境は慎重にマウスを飼い、クリーンな環境の実験だったため、感染などの心配がなかったのである。サルモネラの変わりにウイルス淡白質を与える事で抗体を作り出す事ができる。
ここから生物学の側からの忠告として、機械論的に生命をみるとき、微分的に止めてしまっている。時間軸で生命をみないと、参照したり、アナロジーを取り出すことは無効になってしまうということを提示した。

3番目に、佐倉氏プレゼ。東大情報学環の教授である。
生命体と建築というテーマでプレゼを行う。現在は科学と社会の関係で行っているが、元々は生態、ミクロな研究をしている福岡氏に対してマクロな分野を専門にしていた。氏が提示するのは、科学論から生命を参照するとはどういうことか、ということである。

生命的とは何かということに対して形式的な定義はない。自己複製、自己維持などのキーワードがでてくるだけである。要素還元的にはできない。逆に参照する場合には、好みに応じて自由に使えるという性質があるという。例として、自由民権運動と明治政府擁護論がある。両者ともダーウィンの進化論が基軸としてあり、自由民権運動は進化していくこと、明治政府擁護論は淘汰から生き残ったと主張する。
他にも、生命アナロジーは用いられている。
「国家有機体論」/ プラトン、「国家」/K・ローレンツヒトラー 「種の論理の弁証法」/田辺元社会進化論/H・スペンサー、市場万能主義 、「建築進化論」/伊東忠太、「大正生命主義」/鈴木貞美
などである。この中で歴史的に言われるのは、強者のための論理としてもつかわれてきたということである。

次に氏が思う「生命的」ということを提示した。それは
「関係性 ―いろいろな階層における―」、「環境と不可分」「必ずしも人間に快適とは限らない」「建築はそもそもからして生命的」
である。

「関係性」ということに関して,アフリカのチンパンジーの写真を映し出す。種同士の個体の関係、道具との関係、別の首都の関係,環境との関係、複雑な関係の中で生きている。つまり、システムとして捉える事、全体をみる、関係性の総和としての環境が挙げられる。
また、自身が家を建てることになり、建築が関係性の束である事を実感したという。ご近所との関係や木、電柱など環境との関係、風,光との関係、区役所など社会との関係性といったことだ。

最後に「関係性の総和としての都市」ということを提示しプレゼを終了した。

三者のプレゼが終了し,全体での議論へ。コーディネーターからの問題提起される。
第一の提起は生命の「参照」についてである。
伊東氏には生命の参照、メタファーとしての生命、「呼吸するような」というキーワードが挙げられ、システムとしての生命やアルゴリズムといったものがコンセプトに介入していること、
スケッチにはメタファーとシステムが未分化であり、生命を感じる表層パターンの建築を設計していることを提示し、生命をいかに参照し、設計に取り入れる事にはどのような可能性があるのかを問うた。
福岡氏には異分野で幅広く参照される「動的平衡」という言葉を広めた当事者として、参照される立場としてどのような意見をもつかを問う。
佐倉氏にはなぜ生命は建築分野で繰り返し参照されるのか。参照する事の限界と可能性は何かという問い。

まず伊東氏の応答。建築はテーマに対し矛盾をもつと語る。建築はモデルであることが大きな存在理由になっている。ギリシャの時代から自然、人間をどうみるか、それを幾何学に置き換えて考えてきた。自然を抽象化し、切り取り、考えられてきた。その一方で建築は環境と不可分に関係せざるを得ない。もろもろを考えないといけない、その矛盾をどう解決するか、であるが、まだ提案はできていないという。
しかし幾何学は変わってきているとする。つまりどのように生命を見るかが変化してきている。モデルとしての建築も幾何学が変わる事によってかわる、そこを少し変えてみれば、従来よりも多用で複雑な建築を提案できるのでは、多様な関係を持つ事ができるのではないだろうか、と語る。より建築と環境が交換するような建築ができるのではないか、それをいわなければ環境を提案したことにならないのではないか、と。

次に福岡氏が発言。伊東氏がいった建築と生命は相容れないという論点を受けて話すと、20世紀、生物学者は細胞の中でいかにして遺伝子は形成するかという仕組みを追い求めており、その結果は一通りだった、という。最近の流行はそのつくられた細胞をいかに壊すか,その壊し方には数通りある。つくってすぐ壊していく。壊し続けていく事が新たな層を生む。壊しながら酸化する、すなわちその系の外部に捨てる。
そう考えると生命は自分の秩序を維持するために壊し続ける。しかし建築は頑丈に、という考えてきた。生命は最初から「ゆるゆる」につくり、壊し続ける事で維持する。つまり扱う時間軸が違う。生命のアナロジーとしての建築は成り立たないのではないか。時間軸がその中にあるようなことを探さなければ空論に終わる、と。
ただ、生物学者と建築家は似ているかもしれないという。男の子は小さい頃は虫か恐竜かに興味がわかれる。つまり、自然界にあるウエットなものと、人間が作り出したドライなものである。生物学者と建築家はウエットなものにいく、デザインに希求がある。

ここでコーディネーターからのメタボリズムと伊東氏の建築の違いは、という質問。

伊東氏は昆虫少年だったことを語った。トンボの幼虫を捕まえ,枕元において網をかえておくと朝方孵化する。それを眺めるのが大好きだったという。形をもってしまったトンボには興味がなく、メタモルフォーシスしていくときのような液体のような、羽のような建築がつくりたいという。さらに、時間軸の見方で変わらずに100年保つ、というより、作る事から始まってデザインし、使われていくことがもっと1つになるべきであるという。60年代のメタボリズム機械的であり、作る人間が図面に入り込む事によって生命的な建築が作れるのではないか、と。

福岡氏は互いに他を規制するのは構造だけではなくそこを流れる情報、物質、エネルギーが流れることではないかという。

伊東氏は建築がそういうものと関わらないといけないと反応。

佐倉氏も物としては変化しなくとも情報などの代謝によって、というのは進化にはよくあることで、また、単にハードとしてではなく、場、機能がどうとけ込んでいくかではないかという。

次にコーディネーターから、生命のモチーフが政治に使われていたことなどがあるが、現代の建築観はどうかと質問がなされた。

佐倉氏は生命ということに対して、象徴として使っていると返答。生命体のこういう要素をつかう、なぜならばいままでになかったから、と自覚的にやっていると応えた。

ここで、福岡氏が生命の参照の仕方として危惧があるなら、生命を細胞と考え、異分子を排除する視点が危険だとする。つまり鳥瞰的視点からの視点が危険であると。生物には鳥瞰の視点はない。分散的でローカルなルールだけで連鎖的に広がる事に拠っているのである。例えば「監督」などによって生命をみてしまう危険がある、とサッカーの監督との対談で監督が「これからはチームも動的平衡」という言葉に対して「生物に監督という立場はない」という返答をしたことをもとに話した。

伊東氏はエコロジーという問題とどう関わるか、ということを発言。(おそらく「20XX年の建築原理へ」の中でのインタビューでの知見であろうが)植物学者との対談の経験を話す。実際は木は他の枝のことを考えないで、隣の木を倒して自分が生きるかしか考えていない。それによって保たれている。バランスが取れているようにみえるが、どれだけ光を得られるかということをエゴイスティックな結果なのである。
1つの建築を考えるとそういう競争をさせない建築を考えてしまい、その結果としてシンプルなものでいいではないかとなる。 つまり、建築の全体性の問題と関係性をどうつくっていくかという問題。

そこで福岡氏に質問が飛ぶ。監督はいないにしても隣の他者との違いを維持していくというのはどういう関係にあるのか、と。

福岡氏は必ずしももエゴイスティックに動いているわけではない、相互補完的に動いている過程がある、という。その補完後に自分の仲間を増やしており、必ずしも自分の最大利益を最大化しているわけではない。

佐倉氏の補足。協力し合った方がいいとなった結果としてシステムが生き延びてきた。個性、個体性は人間からみたものであり、そうでないものはコロニーとしてどれだけ生き延びるか。 蟻一匹ではなく集団として、つまり、個体性は様々なレベルで考える事ができる。

次に2つめの問題提起、「境界性 建築における動的平衡とは?」。
この提起はさらに具体的な話として建築における理想的な動的平衡状態を探るものである。「せんだい」のフレキシビリティ、来た人が目的に会わせて空間をつかうことによって空間の境界をつくっているようにも見えるが、どう考えているか。

伊東氏は建築を屋外的なものにしてしまいたいという。しかしそれは永久に解決できない矛盾でもあり、内部において自然環境に近づいた空間をつくることが可能なのではないかという。
オペラシティの展覧会において地形のような床を作ったときもそれだけで寝転んだり走り回ったり人が稼働される。多摩美の図書館は一階床を周辺に会わせてスロープにした。そういうところではボールは転がってしまう。そういう状況になると人は考える。一階は半屋外で直上階は図書館。うるさいとか言われるかと思ったが,ここは屋外のようなものであると思えばそうはならないという。

次に佐倉氏に質問。人間が境界を感じる仕掛けだけでいいのかと。
佐倉氏は動的平衡は理想的にこういうものがあるというより、関係の間で決まって来るもの。仕掛けをつくっても使えなければならないとする。理想的な環境は何か、というのは上からみるから危険だと述べた。いい建築というのは環境と関わりながらプロセスが変わっていき、その結節点が凝縮しているものだとおもう、という。

次に福岡氏に流れるための仕掛けが必要、その具体例はあるか、という質問。
それに対して福岡氏は小胞体を思い出したという。建築と膜のことを朝日新聞のコラムに書いた際、ある建築書籍の出版社から伊東氏と本を作ろうと依頼を受けたが台中に行きたいという希望が通らなかったため実現しなかったという。

小胞体は細胞の中にもう1つ仕切りがある。それは細胞内の秩序を維持するためであり、膜で閉じられている。中で酸化と還元をしなければならない。つまり酸化でエネルギーをつくり、還元でつくることを同じ空間内でしなければならない。仕切る事によって別々の機能をもたせ、維持する。小胞体は必要なときは大きく、いらないときは小さくなる。
建築おいては構造体としてのルールとして、閉じたものとしてしかつくれない。細胞の現場からは壁が可変的なものとしてみえるという。

ここで伊東氏が発言。現代建築のつらいところは空調がきくということであると。木造なら内外を「ゆるゆる」にすることができた。チューブということを考えると、外の内は外であり、建築ではどういう交換が行われるのか。生命体のようなバランスを作る事は難しいという。
また、建築は何かのモデルであるという。何かを抽象化してなにかをつくるのがこれまでの建築だった。現代において我々が混乱しているのはアジアの建築は明らかに違うからであり、境界をはっきりさせることは西洋から西洋的思想によってつくりだされたのであって、そこを解決することができるのではないか、と。

佐倉氏が縁側という機能を今のスタイルに可能にしていて、「せんだい」などはそういうことを意識してるのではないかと質問。

伊東氏は空調は半分にして、寒い時は寒いでいいのではないかという提案もできるが、社会がついて来ない。省エネとか言ってる人とは逆の立場であると応答。

福岡氏はコンピューターは廃熱が必要で、年中冷房が必要になる。東京大学では二酸化炭素が一番消費されているという。4位は六本木ヒルズである。コンピュータの塊ほど二酸化炭素排出が激しく、内外の規定が堅固にあることを指摘。

コーディネーターから建築家は形を生み出さなければならない ことを前提に,美的な面で生命的なものは意味があるかという問い。

伊東氏は建築にとって美しいかどうかは、自身ではある抽象化を経ているかが1つの指標になっていると語った。柱は細すぎないか、思想は反映されているか。
使う人は入った瞬間に居心地いいか感じる。建築は図面を書くこと自体が抽象的であり、コンクリートを打ちながらホールを考えたら変わるのではないかという。その抽象化という作業は変わらなければならない、抽象化は抽象化でも方法,概念が変わる必要があるのではないかと示唆に富んだ発言。

そういう作品はあるのか、という質問。

氏はぐりんぐりんがそうだと述べる。地形のような建築をつくったが、これは失敗だと藤森氏にいわれた。藤森氏の言われたのは植物と建築の関係であるが、それは自身にとっては抽象を経ていない建築だった。それがどういうものであればいいのか、ということがわかっていないという。

最後に会場質問。3つの質問が連続でなされ、それに対して三者が自由に返答するというスタイル。
1つめの質問はメタボリズムに対してデザインだけでなく作る、使うことは生物的形態である二重螺旋やボロノイ図法などでは可能か、均質的なグリッドではなし得ないものなのか、というもの。
2つめは環境から切り離し,再度敷地に投げる事が設計であることを述べ,完結しているようなふりがもっとも危険であると思うがどう思うかという質問。
3つめは伊東氏の使う「流動的」ということの奥に迫ろうとする質問。水、生命に関係する言葉であるが原風景にあるのか、と。

直行するグリッドではないのが新しいメタボリズムなのかという質問に対して伊東氏は明らかに関係はないと断言。場所の違いを作り出し,そこから先は自由、どこに座るかから作りたいという。どこに座っても同じだと考えると何も始まらず、それ以上に重要なことは建築家の一元的思考ではなく外からの情報をいれながら非線形のプロセスをつくりだしたい。それを実現するためにまだ経験されてない秩序のあり方を導入していくことがをしていると応えた。

福岡氏は細胞があるコミットメント,何かになるかというのは、
どうすると駆動するかというのは生物学的には大事で、軸がどこにあるかが大事だと応答。
ES細胞は何者にもなれないけど分裂はしつづけている。増殖している途中は何にもなりえるが何にもなっていない。子宮の壁に着床することで軸を作り出すこと、上下左右などを決めると述べた。

佐倉氏は2つめの質問に建築雑誌が周辺環境との関わりを映し出さないことを挙げ、動物園のようにもみえると発言したことを受け,動物園にしかできないことを挙げる。種の起原の保存、教育、それを考えている動物園が生き残る。おそらく建築雑誌も同じではないかと。
3つめの水と生命に関する質問について、なぜ生命が陸に上がったかはよくわからないが、水の方がいい環境だったが、陸に上がった事で悪い環境に直面する。そうなることで進化が起こったということことを連想したという。

ここで福岡氏が現在水はガソリンより高い、この事実は大変なことだと発言。

伊東氏が最後に再度発言。80年代後半、多田勉というアーティストについて言及。一日モニターの前でデザインし、その映像を自分でみることによって水に浸っているような感覚を受けたという雑誌記事を読み感動したという。人間は自然から独立したが、 テクノロジーによって人間がまた自然に還るのではないか、と。

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