・6Q 〜6の問いから始まる即興建築トーク〜 @Uplink Factory

発表者 秋田亮平(藝大院) 中村紗惟子(藝大院) 中村大起(東工大院) 岩間直哉(東工大院) 林盛(東大院) 服部一晃(東大院)
ゲスト 新居幸治 有山宙 五十嵐太郎 磯谷博史 岸健太 坂牛卓 佐々木新 芹沢高志 瀧健太郎 豊田啓介 中山英之 松原慈

6Q。それは6人による6つのQuestionである。
第一部では前述した東大、東工大、藝大の三大学から二名ずつ大学院生が発表、15分×6人で計6つの提起がなされる。そして第二部では多数のゲストからの質疑、ディスカッションという流れ。(第三部も存在する。珍しく懇親会的なものがイベントに含まれている。)

第一部、 秋田氏からのプレゼ。氏は東京藝大構造系、金田研所属である。
金田氏は構造の分野についての説明を行うとき、ビデオを形にするという説明をするのだという。また、金田氏の研究室では素材などからのアプローチに重点を置いているという。
プロジェクト説明にはいる。秋田氏はファスナーを用いる。修士論文以前では折平面をファスナーでつなげて立体にするということを「MACHI-YATAI project」など富山等の街中で展開してきたという。そのころからやわらかさへの興味があったという。
修士制作では布を使用する。布は中間的属性であり、軟骨的状態であり、自立可能でかつ変形可能だからである。その中でもポリエステルに着目する。ポリエステルは湯をかけると変形し、最小曲面を描こうとする。
修士制作の過程としてはステップ1で平面的幾何形態の四角形、五角形、六角形で行う。ステップ2では閉じた三角形、ステップ3では平面的に幾何学を展開し、ステップ4から立体的に展開する。
ポリエステルという素材を使い、その柔軟性を最大限に活用した構造的提案から生み出されたQuestionは、「物質的想像力」である。物質が喚起する想像力とは、そのリアリティからの提起。

次に同大学院同研究室の中村氏。
氏は紙という素材を用いる。紙からどう形を生み出せるか、という問題。
建築で使用される紙は素材感であったり紙自体から形をもってくるというのは少ない。
紙の特性は何度も同じ方向に折る事に強い、復元力があるなどがあるが、そのキャラクターを使って形態を引き出せないかが制作の発端になる。
氏は蛇腹と紙の検証をする。蛇腹を広げていくとねじれを含みながら広がる。そこにはいくつかの機能が含まれることになる。すなわち、蝶番、距離を保つ、角度を均等に配置など。その中で氏が注目したのは蛇腹を引っ張るとねじれを中にキープすることができるということである。
ねじれは自然界にも存在する。両端を固定することでねじれをキープし、力をねじれのなかに内在することができる。固定点を変える事で微妙に形を変化させることができる。距離,ねじれを変化させ,形状を固定する。
さらに、若葉マーク、歪んだ四角形など帯の形状も変化させる。ここで正方形が断面でなくなると、全体形がトランスフォームする。すなわち、デザインする要素とシステムが連動し、生成するのである。
このデザインを椅子に応用すると、一人が座り,隣に誰かきて引っ張ると椅子自体の形状が変わる。
また、アイボリーケントなどの紙の素材も検証している。そこから強度、スケールの変化が確認できるという。この構造体はプロダクトであり、椅子であり、会議場のパーテーション、ゲートでもあり,壁でもある。
この制作から、領域を横断するものとしての蛇腹というシステムと紙という素材から紙の限界をみつめ、フラクタルに着目する。均質でない変形を微妙な力学的変化によって形状を変え、素材感を出すものでなく、屋根になり,ドアになるが、どれでもない。ここから見出されたQuestionが、「曖昧さのもつ力」である。

次に東工大の中川氏のプレゼ。東京におけるカフェなどを二次的な公共的空間と捉えた研究である。東京の公共空間は上空にあるのではないか、と氏はいう。
まず、メイドイントーキョーなど都市に関する書物に言及する。同書は都市の力学を読みとったものである。また、東京の特性として高さのまばらさを挙げる。
ここから抽出されるのはカフェなどは超高層がたつことで公共性を失う脆弱性をもつことである。
次に眺望のタイプ分けを行い、眺望の持続性、ビルの永続性を考察する。年代別に行われることで明らかになったことは情報技術の発展で見えにくい場所を発見することである。
最後に二枚の都市の写真を映し出し、都市に対する人々の意識を思考する。流れるままに開発の進む風景に対して、自らが主体となって都市を作っていこうとする風景である。このことを氏は「公共性をチャージする」と呼ぶ。この言葉はスミッソンの言葉であるというが、公共性がチャージされることで風景は変化する、と氏はいう。
そしてここから提示されるのは「個人的公共性」。「みんなのものである」という公共の定義から、「私のものだ」ということが現代の公共性には近いのではないか、と氏は付け加えた。

4番目のプレゼンター、東工大岩間氏。「空隙建築」という修士制作である。建築家が巨大建築にどう関われるかという問題意識を根底にもち、新宿6丁目の超高層ビル群の中で建築を設計する。
まず、東京という都市の特質をつかむ。様々なヴォリューム、緑地などのヴォイド、それらが有機的につながる。小さいオープンスペースなど、異なるスケールのスペースがつながっていることを提出。
そこからコンセプトとして都市空間にみられる空隙の包含関係をとりこむことで多様な関係性を内包した建築を包含すること、立体的にスケールを連続することが抽出された。
次に、氏はヴォイドの整理する。周辺環境によって形成されるヴォイド、対象建築を欠き取るヴォイド、内包されるヴォイド。それらを整理すると、
1、スケールの大きなマクロなヴォイド
2、キャニオンのような空中の広場
3、プログラムを融合し、コミュニケーションを創発するヴォイド
この三つを主体としてつくっていく。敷地である西新宿6丁目は都庁者があるところである。170m前後のビルの予定地でもあるという。
周辺環境としては新宿中央公園,低層住宅地、高層超高層ビル群を周辺にもつ。この敷地は様々なヴォリューム、空隙が並列し、東京の縮図としても捉えることができる。
断面図、鳥瞰図からは、山型の建築が連なり、山脈のようになっていることが窺える。計画案では、地上部の広場、基壇部の広場、プライベートな外部空間がスケールを変えながら連続していく。地上から一段階上のレベルになる基壇部では、内部に外部が入り込んでくる。そこから上のレベルになるとヴォリュームより空隙が多くなる。つまり、高層部に行くにつれヴォリュームと空隙の図と地が反転していく。
ヴォイドスケールのグラデーションがオープンスペースとして入り込んでくるのである。氏は空隙の構成をデザインした。異なるプログラムが対峙する部分にはそれぞれのための外部空間によって緩衝空間になる。つまり残余としてのヴォイドではなく、ヴォイドを積極的に活用する計画案である。
氏から提出されたQuestionは「経済的非合理性」である。経済的には合理的ではないが、ヴォイドなどを活用していくことはどのような可能性があるかを問う。

次に東大、林氏。バックミンスター・フラーの研究。フラーは現代において、両義的評価がなされている。さらに現代的でありながら宗教的であると感じる。それはなぜかという疑問が研究の発端である。
大まかな構成としては以下である。
1、思想の発端。その神秘性や思想の説明に加え、テンセグリティ、軽量ということを概観する。
2、日本への需要の歴史。ジオシックドームは、坂倉準三の東急文化会館の屋上のプラネタリウムを建設する際に日本発で指導した。その後モントリオール万博で再評価を受け、黒川紀章が多用する。
3、フラーの死とその後の展開。石山修、原広司伊東豊雄への影響。一方で、自律的な形態として、ヒッピー文化などに受け入れられる。
「表層的需要」。氏が提出したQuestionである。フラーの全てを理解してでの思想需要ではなく、思想なしでの需要が重要なのではないか、と。

続いて東大難波研、服部氏。妹島和代論。
氏は当初、妹島の建築は流行しているということを理由に好まなかったという。また、歴史研では暗黙の了解として存命人物の研究はタブーとされているが、消費のスピードを増す今日において、そのようなことは言っていられない、という。
論文は学生時代、独立時、再春寒製薬以前以後で分けられる。
学生時代の妹島は多木浩二の講義を受けるために東京造形大に通い、研究会などにも参加するようになったという。そこから大橋、倉俣史郎との深い関わりが窺える。「室内建築派」、氏はいう。また、伊東豊雄篠原一男坂本一成にも影響を受けている。さらに、卒論、修論のテーマがコルビュジエの曲線に関することを研究していたこと、ファサードという外部を取り扱いながらも内部から言及していたことを指摘する。(修論:19世紀カントリーハウスの固有性)
次に独立後の作品を追う。インテリアの作品での原案で家具が持ち込まれておらず、情報のダイアグラムとしての図面であったのが最終案では家具になっていることから妹島にとって家具は必ずしも必要でなかったことを述べる。さらに「プラットフォーム」と伊東のシルバーハット、坂本の住宅との屋根の違いから、単位の反復による屋根構成を抽出。そこから「プラットフォームⅡ」への過程を説明。
次の妹島にとってメルクマールとするのは再春館製薬女子寮である。ここで妹島は条件からスタートする。その後の作品ではピロティや掘り込みといった地面との関係や、回廊による境界を曖昧にすることで距離を生む。
妹島論の延長として、氏は「男と女の身体性」を提起する。長谷川堯が行ったオス性、メス性は身体と対立の関係にあるために長谷川のいうメス性もオス性であるというのである。

休憩をはさみ、第二部。椅子が円形に配され、ゲストのコメントが行われる。坂牛氏は最後の服部氏の発表に対し、雄が雌になっているのではないかと言及した上でプロダクトをやった二人は妹島をどう考えているのかを問う。
それに対し中村氏は自分の作品は形自体が曖昧であるという一方ですぱっとわけるところが現代的であるとする。重ねて坂牛氏は家具的なスケールのスケール感を感じるのかと問うと中村氏は感じると答えた。
次に五十嵐氏のコメント。林氏のフラーの発表の後半は自己言及的であることを指摘。真のフラー需要って何?となる。また、妹島に対して西沢はどう位置づけられるのか、と疑問を発する。
林氏は信者が多く、思想に没入しているか表層的需要ばかりであることを反応として述べた。
五十嵐氏は服部氏に対してSANAAのものはSANAAのクレジットで、ということを自身らが強調することを述べ、ユニットをわけることについて言及。
次に芹沢氏は「建築雑誌」の建築有象無象という特集でフォールアースカタログを著したスチュアートのディシプリンに触れ、環境保護的動きはもうダメ、ということからはじまり、デザイナーが神のようにうまく振る舞うべきだということを述べる。有象無象というのはデザイナーは上手く導くのか,全ての森羅万象にとけ込むのか。
次の佐々木氏はウェブ媒体などをやっている人物である。そこからみて地域などで情報がフラットになっていることを感じており、今回の発表は都市部に関係、作家性をもっていることに言及。現在興味があるのはエネルギーであり考えると分散型のモデルになっている。都市部でどのようにワークしていくか、建築はどうなっていくのか知りたいと述べた。また、建築の経済的需要について、瀬戸内での芸術祭を挙げ、建築が地方にどのように関わっていくのかということを聞きたいと述べた。
岸氏はヒントとしてスケールがあるのではないかとする。藝大の二作品は個別生に応えるのか、フレキシブルであるのか、建築家はスケールを横断できる、と。またできちゃったモノに対してアクティビティが寄り添っていく事はできないのか、誘導していく仕方はないのか、と言及する。スケールを考えると、映画であるとし、瀧氏にバトン。
瀧氏は父が建築家であることを述べ、映像と建築は同じキーワードを使いながら語れるという。建築と映画は総合芸術として双子のようなものであり、いまはクロスオーバーする時代である。建築のファサードにテレビがついている、電子映像の皮膚を持った建築など。それに対し映画はスケールレスであり、建築に等身大の身体がくっついたのは全く違うと述べた。そこから即興性として目の前にあるものにどうするか、公共性として時間芸術は間を恐れるが建築は1つ進めてつく手いるのだなと感じたと述べた。
有山氏は渋谷のヴォイドはそんなにいいか、建築の立ち方として新しさではあるのではないか、と言及。
中山氏は中川氏がプレゼの冒頭で述べた「看板の裏側から見れるからいいんだ」というのが印象的で全てを物語っているのではないかと述べた。自分と普遍のポイントとして、建築家は自分を語る事ができない。神的視点を回避するために自分を含む視点で自分を含む世界を語れないフラーとセシル・バルモンドは自身の本を書いた時に自らではなく架空の主人公に語らせる。自分の手の届く範囲の向こう側を描くことを回避する。今日の発表では自分が含まれたスケールを語れてないと述べた。
新井氏は建築を知るためにファッションにいったという。今日の発表では身体性がなく、芸大は具体性という意味で身体性がない、岩間氏もヴォイドが室内にまで行ってない、と言及。
アーティストの磯谷氏は照り返される問題は身体的でなく、建築には結びつかないのでは、と藝大と岩間氏に言及した。
松原氏はsingularityとmultiplicityを挙げ、さらに少年とか少女の設定の身体は勝手にあるとした。
ゲストサークルは二週目に入り、坂牛氏が二項対立のどちらでもないところからそうでないもののディテールをもう少し肉薄できないかと発言。
五十嵐氏はこのイベント自体が無謀な試みであり、修論は何を求めるかと言う意味で教育側も混乱していることを述べ、個人的おもしろさの一方で客観性を求めることに言及。中川氏の発表は庵野秀明の「ラブアンドポップ」のようなおもしろい場所の発見に留まらず、修士論文というフレームワークに納め、黄表紙に載せなければならないから分類などを行わなければならないとする。岩間氏の案に対してはヒューフェリスが斜線制限を適用することで都市像を描いたような案にすればよいのでは、と述べた。

中山氏からは身体性、個人がよく見えない、しかしモノローグとの違いは何か、ということ、シミュレーションについて言及がなされた。関係性をえがくことでしか描けないのではないのでは、シミュレーションの内側でどう振る舞うかであり、外側からみたときにどう見えるかを考えなければならないと述べた。シミュレータの中では個人が勝手にふるまうことが求められるが、身体性、自分に近づくとウェットな話になることからスプーンですくうくらいドライでいいのではないか、と言及した。