・イベントの可能性 建築の可能性

ぼくらは、展覧会、講演会に何を求めるか。それらはしばしば「イベント」とされる。その種類はさまざまだ。
身近な教授が一度、こんなことを言ったことがある。それは「講演会に行く意味がわからない。その人のことはその人の本を読めばわかるではないか」というもの。ある一面において、この意見はもっともである。「知識を得る」ということを最大の目的とするならばそうであろう。
では、講演会、ひいては場所、人とともに知識を得ることの意味は何であろうか。知識として定着するためのトランスポートという意味合いはあるだろうが、前述の意見の前では言い訳にすぎない。また、書籍化されていない最新の情報であるともいえる。もちろん、ぼくも講演会にはよく行く方なので、知識とともに感銘をうけるといった経験がないわけではない。人は人柄をも含めてみてしまう傾向もある。それは結構大事だったりする。
しかし、しかしだ。イベントを起こす主体からすればイベントを成功(計画的に遂行すること)が目的となる。しかしそれだけでは受け手側からすると単に本屋で雑誌を立ち読みするかのような消費でしかない。この問題は、建築という空間の消費とも関係するとぼくは思う。
一過性の快楽か、書籍以上の新鮮な知識か。はたまたそれ以上の何かか。
ぼくは展覧会というのは身体的な書物であり、講演会は感覚的な書物であると考えている。そこからは知識を抽出するとともに付加的に別の次元の何かを読み取ることが可能である。しかしまだそれは近代の範疇の延長でしかない。イベントが行われる「場所」は、送り手、受け手の一方向性というものは崩れてきているからだ。そのことを痛感させられた最近のイベントに、TEAM ROUNDABOUTの主催した「Live Roundabout Journal」(LRAJセッション編 LRAJ議論編)と東大、東工大、東藝大の有志による「6Q 〜6の問いから始まる即興建築トーク〜」があった。そこでは共通して主催者側からの「伝えるべき目標」というものが意図的に欠落させられ、「何か」を模索する状況がtwitterやustという情報環境との共犯関係により盛り上がりとその伝播がなされている。しかし、そこから生まれる「社会的価値」というのが生まれてこそ、「講演会=感覚的な読み物」を超えることになるのではないだろうか。
ここでぼくが言いたいのは、「講演会=感覚的な読み物」を超える「現代におけるイベント」は、「行われた場所、時間」に限らずその延長として議論され続けるべきものである、ということである。そのために、ブログやtwitterなどの情報空間があるべきだともいえる。このことを考えることは、ぼくが前掲のイベントだけでなく参加したものは一次資料としてブログ上にできるだけ綿密に公開してきたことの「意義」を考えることとも符合する。さらに、イベントが集合知になること、双方向性をもつことによって書物以上の意義を抽出することも、である。

そしてこのことはLive Roundabout Journalの藤村氏の振り返りとともに、LRAJの建築における議論ともリンクするものだと考えている。そこには、情報から知にいかに昇華させ、生み出すことによって生産的な領域にできるかという意識がある。
少し実践的な議論をしよう。
詳細はリンクをたどっていただきたいのだが、LRAJでは、東浩紀氏や磯崎新氏に加え、興味深い実践を行っているpingpong、連勇太郎氏などが登壇、プレゼンテーションを行った。この二者に共通するのは、現実空間を使用し、そこでtwitterなどの双方向メディアを利用することで空間の構築にまで介入しているという点である。少し整理しておくと、全般的に通底する政治領域として東浩紀氏、濱野智史氏がおり、政治と建築領域との架構を藤村龍至氏の提唱する批判的工学主義、超線形設計プロセス論があり、建築領域に藤本壮介氏、pingpong、連氏が位置づけられると理解している。
それらの傾倒するのが東氏の「一般意思2.0」に表れるような「2.0」的活動である。これは双方向性のメディアの台頭によって個々人が「変数」としての扱いを受け入れられることであるが、それをどうデザイン、制度設計に活かすかということがLRAJの第一部、セッション編では表れていた。東氏の「一般意思2.0」では、意識的、無意識的ということやpingpongのプロセスにここでは言及しないが、一方向性から逃れる契機になっていることが重要である。つまり、今回のイベントはLRAJのタイトルにも挙がっている「メタボリズム」の限界はその機能主義的側面である社会と人間の普遍化にあるが、その批判としてのイベントであり、どう乗り越えるか、そのツールを示唆する人たちを集めたものでもあった。
しかし、Ust、 Twitterといったリアルタイム情報はイベントの情報としての唯一性を低下させることに繫がり、さらにはイベントを一過性のものとして「祭化」させることにもつながった。この問題は藤村氏も自覚的であるが、「情報と物質の関係」の先端的な試みとして受け取れる。

ここで建築の問題に翻り、そもそもぼくが展覧会、講演会について考えるきっかけになった建築へのフィードバックをどう行うかということも考えてみたい。
それは「超線形設計プロセス論」にも関わりをもつかもしれない。しかし前述したように「設計過程」と「持続過程」は異なり、必然的にpingpong、連氏の実践に関心がいく。
pingpongプロジェクト、連氏の プロジェクトはともに、建築の持続過程において建築家と呼ばれる建築の切断を行った時間軸とは別に新たな時間軸を用意し、そこに個人といったさまざまな時間軸を複合させる「集合知」的過程を導入するものである。これは近代化遺産などに行われる措置である「活用」という方法にもツールは非としているが似ているかもしれない。近代化遺産は主に経済的側面においてソフトを重視するからである。それに対してこれらプロジェクトは多数決をとるような民主主義的プロセスでもなく、意識をくみ取ることで建築へ反映させる。

そしてぼくは、ここで社会的な「作家性」が反映されるべきであると考える。つまり、ぼくはpingpongや連氏が行ったアウトプットには言及していないが、その意識の反映ができた上でどうデザインするかの担保を建築家に預けるべきであり、そこに経済的合理性で出来上がる都市に対しての批判性を持ちうることができる。そしてここで冒頭のイベントの議論がリンクする。すなわち、「時間的場所」の問題系である。イベントという突発的「出来事」が木造であることなどで空間の可変性となっていた。
メタボリズムと同年代の建築にもこのようなものがなかったわけではない。見方によっては三愛ドリームセンター(林昌二,1963)の広告や読売会館(村野藤吾,1957)の構造体以外の部分、ソニービル芦原義信,1966)のインテリア変化に対応した設備などがそれに当てはまる。それらは社会の変化による情報の変化に対応する建築でもある。

しかしそれら都市建築はマスメディアという担保によって可能なのであって、都市、地域にもたらされるべき生活が生きられるわけではない。建築における持続性、ひいては生活に関する建築としての持続性は人々の思考とリンクされるべきであり情報空間における反応を求めるイベントではこの問題が縮図的にみえた。
そこから主催者が何を次に提示するべきか、これは空間においてもイベントにおいても考えられるべきことであり、そのためには情報空間が知の空間へとなることが求められる。