・他人から与えられて本当にいい物は、コーヒーだけなのかもしれない。


  「他人がいれたコーヒーだからだ」
                 ――――「かもめ食堂」より、まじないをかけたコーヒーのおいしい理由について



豊かな賃貸住宅を目指す@omori_lodgeさんが、現代アーティストの@kawadayukoさんと展覧会を行っている。「ブルジョアボヘミアン」。場所は学芸大学から少し歩いた閑静な住宅街にある。デザインを行った@furuyadesignさんとも少しばかりお話することができた。
午後3時頃に到着し、帰路についたのは18時半頃。3時間半、結構な時間お邪魔した。そこにはずっと、ハッチングをする川田さんがいた。ハッチングをしながら、後ろで見るぼくと話を続けてくれる。最近、たまに美術館でアーティストの公開製作のようなものが企画される。そこでぼくらはまるでアートを見るようにアーティストの製作過程をみる。しかしここではそうではない。ぼくと他愛もない話をしながら、時には手を止めてこちらを振り返りながらも、手を動かしているアーティストがいる。
プロセスを公開することと、プロセスに参画する事の違いは明白だ。その作品はアーティストと参画者に意味を与える。川田さんが描いた一本のハッチングには、その時だけの時間がある。その時だけの光がある。そう、もう二度と、その時間と空間はかえってこない。あのとき見た線、あのとき引いた線は、かけがえのない時空間だ。
その表象をなぞるような言葉を @omori_lodgeさんは発していた。「1つの傷でさえも愛おしい(意訳の意訳)」と。その線にはそこにしかない意味があり、深く、豊潤な豊かさがある。ヨーロッパの賃貸住宅では、住み手が好きに部屋をアレンジする。さらにそのアレンジが価値となり、次の住み手が決まる。新築が一番価値のある日本とは全く違う価値観だ。そんな深い意味のある、豊かな住宅が増えればいいなと、ぼくも想う。そこにしかない歴史が詰まった家が。


そう、「賃貸住宅もアートでいいじゃないか」ということだ。そこにこの企画展の意味がある。二人から出される物は違う物だが、豊かなのは同じだった。時間と空間。新しいとか古いとか、未完とか完成だとか、そういう客観的な評価はいらない。本来、ぼくらが生きていくためにそんなものはいらなかったのかもしれない。でもなぜか、ぼくらはそんな価値観に溢れた世界に生きている。「生活」に、そんなことは必要だろうか。他人の価値観で作られた生活は、自分にとって意味を為すだろうか。


他にも、ぼくがしている仕事に関係するお話や、大家業の思想を拝受したが、ここでは書かない。書けない。お話が途絶えてもぼくが何も言い返せなかったように、客観化してだれかに伝えると言う事はとてもではないができない。そこまでの今は力はとてもない。しかしぼくにとっては必要な言葉ばかりだった。
正直、今日のお話でぼくは多大な衝撃を受けた。それは、ぼくがどこかで「正しい」と思っていたことを直球で実現しようとしている人だったからだと思う。ぼくにはもったいないほどに、熱く、熱く語っていただいた。ぼくは何か自分に嘘をついているのかもしれないとも思った。遠回りしているのだとも。しかし、正しさはある一側面にしかないということも同時に理解した。社会を貫く一貫した正しさは稀中の稀だと。ぼくは別の世界で別の世界のことを想っている。いつかあちらにいけるのではないかと。
今日、ぼくはそれをはっきりと認識することができた。ある人の正しさは、同じ社会でも別の人からすれば正しさではないかもしれないということを。でもそれは伝える価値のあるものだと思う。まだぼくにはできないが、絶対に伝えられる人になる。

ぼくがここに訪れたとき川田さんの描いたハッチングは、そのとき真新しく、描かれたことなど他人事のようにキャンバスから浮いていたはずなのに、帰る頃にはしっくりと絵の一部になっていた。ぼくが訪れたときの心境と時間を含有して。その時点で、ぼくにとってこの絵は単なる絵画ではなくなっていた。通り過ぎさってしまうはずの時間は、「アート」として強く存在している。

そう、やっぱり、他人から与えられて本当にいい物は、コーヒーだけなのかもしれない。それ以外に本当の豊かさを与えてくれる物は、自分の手から生み出すものかもしれない。