社会起業家」「社会改良家」という職能に,どんな可能性があるだろうか.一般的な定義としては大きな枠組の中で小さな悪のようなものに介入するのが現代日本的か.さらに,それを一過性のボランティアのように終わらないためには,介入先の入念な研究と,それに対する土壌が必要になる.現在あるNPOのようにある地域にパラサイトするように持続的にするか,普遍的な原理を各地域でドライブさせるか.どちらにせよ,そこに資本的価値,つまり労働資本や使用価値がなければならない.
それは追々研究していくとして,現在修士論文と並行して考えなければならないのは職能的問題,つまり建築家のようなデザインを司る職能と社会との接点を持たせるプロデューサーというか,社会起業家的職能.ここを意図的に1人でこなした人というのはNGOの経験と紙の建築で建築家の職能を広げた坂茂氏や迫慶一郎氏か.しかし本来的に建築家という肩書きを掲げることに,まだ大学教授がNPOに参加するような居心地の悪さがある.
さらに建築の可能性である.神奈川県立音楽堂の保存問題以後,様式建築のように「評価」が世論と一致するだけではモダニズム建築の保存は不可能とされている昨今,そこに資本の介入,つまり活用がなければ建築的価値は物としてだけでは認められていない.そこに運営費を含む資本回収の仕組みがなければ,社会の財産としては固定的すぎるということであろう.さらに,評価という固定した価値だけでは,文章,見学などで伝えること以外にその公共性を担保する術もない.まちが建築と共に生き,暮らさなければ建築に命の灯火は灯らない.これはモダニズム建築だけでなく全ての建築における問題である.竣工から保存,活用は始まっている.
ここに地球環境問題やらCSRなどのブランディングされた虚構は全く関係ない.どこに必然性があるかもわからない,ある種当たり前のことを前面に出したとしても意味はなく,建築が建築として,都市が都市として自律した地位を獲得しなければならない.