昨日に引き続き、気持ちのいい空模様。今年に入って初めて、半袖で外へ出る。
妙蓮寺、北鎌倉のオープンハウスへ。
東横線で初めての普通電車に乗り、商店街が駅前に並ぶ妙蓮寺へ。土曜日の昼らしく、みなのびのびと街を歩く。明るい日光にも相まって、普通の街並が明るく見えた。
オープンハウスのCELLULOIDJAMは、ダイナミックな空間構成を得意とする前田紀貞氏による。公共建築においての大胆な建築というのはいつでも見れるが、住宅という最小限の建築物、敷地での解法はそう見れるものではないので、いいものをみせてもらった。
その後、北鎌倉へ移り、今度日置拓人+南の島工房による日置氏の両親のためにつくられた家を訪ねる。ここでは元所員でいまは独立されている遠藤さんと左官工事やインテリアの話を聞くことができた。また、たまたま来ていた元フリックスタジオの大家さんとお会いし、少しインターンのときの話をする。
一通りみて、歩いて鎌倉方面に向かい、途中の明月院建長寺へ。
観光客か、たくさんの人が来て美しい紫陽花を堪能しているようだった。雨の合間の晴天に、みな楽しそうだった。
威厳のある建長寺を感じて、一気に鎌倉方面へ歩き、駅前商店街のひっそりとある焼き鳥屋で今日のシメ。歩いた後のビールが断然うまい。いっしょに焼き鳥もついつい進んでしまう。
寮に帰ると、ネコとの事件が起こる。。。








CELLULOID JAM/前田紀貞

敷地に足を踏み入れた瞬間に、官能的な肌触りを覚えたという。その感覚から生み出されたコンセプト、「メビウスの帯」。一枚の平面をもった立体的に回転しているトポロジカルな形態。これを建築化すると、一度も途切れることなく同じ場所に戻ってくる空間構成を得られる。それを機能、敷地に対応させる。
もちろん、通常の立方体を基本とした建築よりも絶対的な面積は減少する。しかし、機能、敷地の境界をなくした建築は、高所の立地で広く空と街を見渡せる条件と相まって敷地という制限を無化する。
ここでの生活は通常のものとは全く違うであろう。しかしそれは生活という人生の断続的な感動と流動性をもった流れを一体化する、全く新しい提案になっている。










砦の家/日置拓人

CELLULOID JAMとはある種対照的な、左官工事を主とした住宅。両親のための家であるこの住宅は、日置氏や所員の方も施工に関わっている。その作業のおかげでとても痩せたという。
「砦」とは、学生運動など常に社会に対して批評的であった父のこれからを応援する、という意味もこめられている。高齢者になり、小さく、弱くなってしまうのでなく、外部の環境、社会にいつまでも刺激され、元気でいてほしいという息子ならではの願いだ。
居心地のいい空間とは、どれだけ設計者が職人と接するかが重要であり、そこから生まれるきめ細やかなデザインが使う人にとってもよいと日置氏は語る。なるほど、ここには細部まで考え抜かれ、自らの手で作り出されたディテールと、独特の時間軸があるように思える。そこにはある種の他律的要因は極限まで抑えられ、ものと人が接する場所としての力を感じる。
自然に対して敏感に変化し得るであろうこの住宅の外壁には、活き活きとした感触がある。建ったときが終わりではない、独自の時間軸とともに、より建築化され、住人とともに歳を重ねていく住宅のあるべき姿が示されている。






寮に帰るといつも入り口でネコが座っている。いつも何ら変わりなく、どこか虚空をじっと見つめながら。
私はこのネコに一度も餌をやらない。その軽い行為の責任の重さをとることはできないから。
最近、気になることがある。私の部屋は寮のなかでも奥まったところにあり、私と私の目の前の部屋に住んでいる学生以外は廊下の突き当たりまでくることはないにも関わらず、ぽっと部屋を出ると、そのネコがそこに座っていることがある。向かいの部屋のドアを背に、私の部屋の方を向いて。いつも話しかけたり撫でたりはしているのでただついてきてしまっただけなのかなと思って気にはかけていないが。
今日帰ってきて風呂上がりに外へ出ると、また目の前にネコがいた。今日はたまたま、そのネコを写真に収めようとしていたのでちょうどよい、とカメラを構えているとネコは入り口の方に向かい出し、レンズには目もくれずに行ってしまった。とりあえずついて行こうと後を追うと、ネコは入り口を出て光の当たらないコンクリートのスロープに座り込む。フラッシュを焚くのも億劫なので少し黙って見ているとケホッという小さな音とともに何かを吐き出した。牛乳のような、ヨーグルトのような、液体と固体のあいだのようなもの。
私は何か悪いことをしたような気分になった。このネコは体調がよくないのだ。もしくは腹をすかしている。そんなときに私は気楽にも写真を撮ろうとネコに迫っているだけだった。
小さく役に立たない頭で考えた。野良猫で、住み着くからといってそんなことは言ってはいられない気がした。ひとつ、命が消えるかもしれないなどと、今思えばいかに自分が混乱していたかがわかる。
結局、猫を飼っている友達に電話をして、何か悪いものを食べたのだろう、という結論に至った。私は人間が食べなくて胃液を吐くのと同じシステムだと勘違いして何か食べさせないと、と思っていた。住み着く、住み着かないの寮における損得など、考える余地もなかった。ただ、目の前のネコを、助けようとしていた。
さて、このことはいいことなのだろうか。野良猫の命か、寮の衛生か。こんなことは大きい小さいに関わらず社会のなかで個人が生きている限りどこでもいつでも起こっていることだと思う。
もし、私がネコに餌をやるとしたら寮の衛生は不安定なものになるかもしれない。逆に餌をやらなければ死んでしまうかもしれない。もちろん、実際はそうではないのでこの仮説は成立しない。しかし私はケビン・カーターの「ハゲワシと少女」を思い出した。最終的にケビンはこの少女を見捨てたわけではないが、このような写真がジャーナリズムの世界では評価されることを疑問に思っていたのが爆発したのか、自殺した。この写真によって起こされた議論は「報道か人命か」、つまり社会的評価なのか目の前の人を助けることなのかというどこかジレンマを帯びたものだった。
このことに答えはないのかもしれない。しかし私は生きている以上、自分のこの感情を抑える理性を持てるのかが自分に疑問でもある。



今日行ったオープンハウスの二つの事例も、この二項対立にきっちりとは当てはまらないながらも同じようなこととして見えた。それは野暮ったく言うと革新と保守のような関係でもある。どちらも満足させる、というのはできるものなのか。建築において。そして人と人の関係を築くデバイスとして。