・葛西臨海公園展望レストハウス/谷口吉生


先日、JR京葉線に乗って木場まで行く事があった。そのとき海岸線の手前に見えるこの建築は、海風を受け止めるための板のようにも見えた。限りなく透明で、空と融和するこのガラスと線の物体は、展望台の機能は明らかに二次的なものであって、異常なまでの一元化を達成しているように感じた。

まずこの配置は、展望という機能のためにあるように見えるが、そのオブジェとしての存在の達成が、谷口のモダニストとしての立ち位置を明快にしているようにも思える。



谷口吉生モダニストである。有名な著作である美術館などの建築から、そしてこのレストハウスからそれは明らかすぎることでもある。評論家浜口隆一の著作、『ヒューマニズムの建築』で謳われている、近代建築の機能、つまり人間のための空間のための一元化は、ここでは一元化の延長上にあるオブジェクト化により遂行、乗り越えられている。その意味で谷口、槇文彦にみられるある種の軽快さは、確固たる「建築」という定義の範疇において、「感受性への」深層から表層への重心の移動が歴史的に行われたことが確認できるであろう。


しかし、感受性における移行は、リアリティを帯びた存在になることで、つまり建築から建物になることで絶対的な正しさの揺らぎが起こる。聖から俗への移行は、「建築」という絶対領域の浸食を始める。気候条件としての海、そして時間経過の積層は機能を真っ当すればしようとするほど谷口の建築を存在として認めなくなる。


多元的な条件が起こる海岸という場所において、モダニズム建築は存在を主張し、その存在を自律性によって、場所の非日常性によってベクトルを進む。しかし建築の自律性は環境の異物であり(だからこそ存在なのだが)建築が進む事しか認めない状況を作り出しているともいえる。しかもその方向性は環境と別次元のシステムであって「変わらない事」しか求めない思考停止条件であるとも言えてしまう。