・デザインで人は救われるか

この命題は、多くのクリエイター・デザイナーが思考することであろう。
一年間建築の営業をやって感じるのは、それは結果論であり、資本主義にどこまで直結するかはこれからの変容の中で現れるのであろう、ということ。それはつまり、「デザイン」という言葉の齎す中性的でかつ多義的な意味合いは、ある種の豊かさの補完であって生命、生活まで浸透あるいは直結することはまだまだ難しい。
それは現代社会の成り立ちからでも理解可能である。唯一無二の共有物であるマネーは、人間社会全てにおける最大交換価値があるのはいうまでもない。それは個人的なものではない。一方でデザインやアートは局所的で個人的であり、まだ個々人の豊かさのためにあるものである。交換価値の最大となるデザイン、すなわち一般的に流通可能な商品には時としてプライドのなさすら感じるが、それは強靭な力を持っている事に変わりはない。国家という枠組み、大衆社会という枠組みに対しては。
アンダーソンの『フリー』を引き合いに出すまでもなく、デザインに今必要なのはコンテクストである。どういう理由でその商品が必要となるのか、そのレールを敷くためにフリーがある。ある種のコンサルティングであるがそこには個人的な意志の発見とレールに載せるための努力を要する。そこには万人に共通のコンテクストなどないのである。レールのアナロジーは同一であろうとも、大小や量は人が違えば大きな差が開く事もある。必要なのは組織のデザインと成果物のデザインであるが、前者が圧倒的に必要なことであるのは、税制を含めた現代社会を見つめれば容易に発見される。
つまりモノのデザインではなく組織のデザインは原理的にマネタリズムであり個人的行動はその土台の上にある。それが今までの資本主義であった。しかしその社会からも一部では変革が見られる。それが「共感」であり、その共有である。「シェア」に代表されるこの原理には組織と成果物,、両者のデザインが必要とされる。すなわち、マネーを回す世界を縮小することとモノのデザインをより先鋭化、もしくは多様化させることである。大きなコンテクストであればあるほどそれは必要になることであるが、前提としての資本主義と曖昧な部分の抽出と結合がデザインの資本主義への一端となる。

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・大きな誤解

「らしさ」は必ずしも成果物には起因しない、ということ。
今の現況を顧みると、一般的な大学生に比べてぼくはかなりの異種である。建築学科の中では普通でも、それ自体で普通でない。今の立ち位置から「建築」という限りなく抽象に近いものに思考を近づけていた頃を振り返ってみると、作家性というものがそうであるように、「らしさ」が成果物自体に表出し、その「存在」こそが理由であり、意味。これが大きな誤解であった。この資本主義社会の真直中では。
資本主義の身体的な理解は、最上級の共有であるマネー。その原理上で大企業は誕生し、様々な文化的土壌を変更する。そこには数字以外何も表出しない。
「カネが全てではない」と断言できる人は素晴らしい。カネがなくても生きていける、最低限あればいいという人ほどカネに存在価値を見いだしていないようにも思えるが、原理的にそれは不可能である。世界が回るはすなわち金が回る、それはすなわち仕事をすることである。そして仕事とは「仕える事」であってその対価がカネである。
さて、ぼくの仕事は主に権利収入のある人に対してのコンサルティングである。つまり働かなくともカネが回っている人。その人たちの最大の敵は相続税であり、固定資産税であり、所得税である。それに対して「仕事」をしなければその権利収入はやがては自然消滅する。そしてそれは国家、時間との闘いである。「税金」という敵はぼくにとってはパートナーでもある。日本の国土が成立するための税金は、資本主義経済を回すためにあると言っても過言ではない。直接他人に仕えることで得る仕事ではなく、国家という枠組みから働きかけられる。
対人であれば質は大きく作用するが、対国家という抽象的な枠組みに対する質は単なる法律に過ぎない。国家というのは法律であるとも言い換えられる。大きさ、材料、評価額。それらは全て数字に置き換えられる。そのマネタズムともいえる社会で、暴力的な存在理由しかないものがほとんどである。
しかし、そのコンサルというのはそうではない。対人である。最終的な成果物、評価は数字でしかない。それはこの資本主義下であれば何でも同じであるが、それは単に回収される到達点が違うだけのことであり、最大の目的が国家の暴力的な資金回収に対する暴力的な抵抗である。その成果物は、数字に置換されることのできるものであり国家という枠組みに吸収される。その一方で個人に吸収される「仕事」は、数字のための「時間」である。成果物が数字であるからといってプロセスも数字であるとは限らない。そこに「らしさ」が生まれる。それはすなわち個人個人の時間である。

それがぼくの大きな誤解であり、資本主義に流れる時間と資本主義以前に流れていた時間に変わりはなく、目的、目標が明確化され、客観的な判断に基づいている、というだけのことである。

・少し前の話ですが、「ねもは」。

そいえば、これまだ告知してませんでしたね。

「ねもは 01 絶版 建築ブックガイド40」

この中で、ぼくは宮内嘉久氏の「少数派建築論」の書評を担当させていただいている。
ぼくとちょうど同年代の方々が寄稿しているのだが、横国のときに知り合った優秀な方にお声をおかけいただくところから始まり、ジャーナリズムについてかじっていたぼくに編集者としての考え方をまとめる機会を与えてくださった。まだまだこれから文章と言うのは書き続けていきたいと思っているのだが、その根本にある意志を表明するのにはもってこいの機会だった。
宮内嘉久の社会を見る目と、社会と建築との結節点への意識はこれからのぼくにとって大きく影響するものであったし、不動産という必ずしも健全ではない印象のある業界から建築へと意識しながらサーフすることを決めた自分の意志を表明することにもなった。

・環境を整備すると言う事 ー建築以前の「モノ」を構築した過程ー

去年からかけてつくってきた本棚が完成した。

学生時代ステンレスの棚に平積みしていた本たちが、やっとこさ立ち上がることができたようなもんだ。ここまで月数がかかるとは思ってもなかったが,資金の問題やら資格試験やら社会人としての自分と、プライベートの自分のバランス感覚を養うにはもってこいの作業だったように思う。最初の模型作製の記事にもある生活を組み立てる作業は、長いスパンで未完成を確実に意識しながらかつ社会人としても生きる腰を据え、目標へのプロセスを可視化していく作業だったからだ。

スタディ、図面作成完了段階 2010年5月3日
第一フェイズ:2/7完成段階 2010年5月4日
第二フェイズ:4/7完成段階 2011年1月3日
第三フェイズ:7/7完成 2011年1月27日

「自分のためのものを自分でつくる」。ここまで贅沢な時間の使い方はない。今の自分を最大限に発揮するための行為は人によって異なるが、ぼくの場合は絶対的に本をブラウジングできる環境が必要だった。仕事の関係の本は別で整理してあったが,本を埋もれたままにしておくと主題とする思考の整理がつかない。また、これはもはや本棚ではなく、部屋の一部の構築であり、すなわちそれは生活の一部の構築である。
ぼくにとって環境を構築する事は日々何か書き物をすることから掃除など一般的生活までを「自分としてどうあるべきか」を方向づける事である。これも環境管理型の権力と言えるかもしれない。モノに誘導され、無意識に生活が変化することもあるだろう。例えば椅子を一つ増やすことは朝どこに座ってコーヒーを飲むかを変え、無意識に眺める風景を変える。整理整頓の基本かもしれながい、細かな物の居場所を決めておく事にもなり、普通の生活の中でのノイズを減らす。

約八ヶ月間に亘って本棚とデスクをつくった後、すなわち今日以後のぼくの生活は変化するだろう。それはこのブログに断絶的に記述している建築や都市への思考を図書館の自習室という媒介を通さずに都市と自分の部屋の二項対立で明確に行っていく事ができる。


・棚途中経過


年末に同期のIに頼み材料を調達、全ての部材を買い終えた。ここまできたらもうやるしかない、時間だけの問題だった。しかし、壁際の棚分のみで本日は終了、また完成は先送り。収納してみると、後これだけ難民の本たちが、捨てる事も念頭に置かないと行けないが、とりあえず大半納まりきるだろうか。

・メタボリズム再考について

レム・コールハース「(メタボリズムは)造形が独創的なだけでなく、現代建築が忘れがちな社会との関係性を提案している」

ここで言われる、「現代建築が忘れがちな社会との関係性」とは、その物質性への、建築としての回帰であろうか。メタボリズムは物質の新陳代謝を到達目標として建築に取り入れられた概念である。この再考が来年は出版、展覧会として再出発を迎えることになりそうだ。
メタボリズムの概念は建築に落とし込み、プレファブリケーションやカプセルといった物質的新陳代謝は情報化社会、高度資本主義経済と密接に結びつき、サイクルの循環を建築の時間軸に取り入れるものとして評価できる概念であると考えている。しかしそれは建築の何を目的としてものであろうか。都市の更新なのか、はたまた物質としての動的平衡状態なのか。
前提として、工業といった第二次産業の中に建築を含んだ概念であるのは確かである。つまりそこには製造業、工業などの半永続的な雇用も生まれるわけである。そこには情報化によって最適化される環境も含まれる。
しかし、建築を広義のコミュニケーションの一つの場として捉えるのであれば、第二次産業というよりも第三次産業も射程に捉えた建築というのがあってもいいのではないだろうかとも思う。そこにはプログラムとしてのサービス業の他に広告事業といったコンテンツビジネス、IT関連事業も含まれてくる。ここまでを全て統合できるからこそ建築としての意義が示されるのではないか。

同記事で北山恒氏はメタボリズム「50年後の東京は、個別の土地で民主的に建て替わり、それが集まって都市になっている。生成変化は、我々の文化の属性と考えた」と語り、住宅地や都市部などで土地が細分化され、個々が変化することと捉えている。根本的に個人資産は相続などの問題で分化することが要請される。しかしそれは土地、都市の次元での新陳代謝であり、建築が不動資産としての状況ではない。もはや今は建築家は土地のデザインを社会的には要請されているようにも見える。
一方で巨大な都市開発においても建築も主題になるが、経済効率性重視された最大公約数的な一律なプロセスを経たデザインコードでしか構成されていない。これはショッピングの状況にも似た状況である。ブランドバッグ、クロックスなど。

グローバリズムの一端をになったIT系の技術は、建築におけるモダニズムのように世界を一律のもので埋め尽くしてしまうかもしれない。マクロにみれば確かにそうだ。しかし、ミクロな視点をもってみれば双方向性のメディアというものが街を、都市を変える契機になりつつあることも窺える。これは複雑なアルゴリズムとして解釈を建築的に行える事ができれば、建築が都市に固有性を与えると言う事ができるのかもしれない。

思想地図β vol.1

思想地図β vol.1

・WORKSHOP研究 1-0 谷内田章夫氏の集合住宅1

先日、「WORKSHOP研究」と評するエントリを記述したが、実は今日の予定が前提である。それはふとしたことから一員である谷内田章夫氏の作品を拝見できることになっていたからである。

谷内田章夫氏はデザイナーズマンションの第一人者と言われる。
マンション、アパートと呼ばれる類いの集合住宅は、その商品性の程度により一般化された形態が先行して売買されてきた。一般の個人住宅と違い、事業性の高さが大きな成立要因であるからだ。集まって住むとは元来平面的な広がりの中での地面を介したつながりであった。しかし人口の集約、個人の自立を背景に積層化として開発され、いまや当たり前のビルディングタイプとなっている。今回のエントリは、建築的な操作や構成というよりも、その違いが以前のものと違うことでどのような状況になっているかを概説したい。

時期にして2000年頃である。一般向けの建築情報誌である「Casa BRUTUS」は谷内田氏の特集を組む。内容は前述したデザイナーズマンションの先駆けとなるきっかけともなった、もしくは認識されていた事実を踏まえると容易に想像がつく。それ以前にも「Casa」では建築家の集合住宅特集は組まれている。この「Casa」の発行自体、一般社会に「建築」「デザイン」といった認識を流行としてブランディングするための試みでもあるわけであるが、デザインの流行は多様化が叫ばれるのと並行であることからわかるように、メディアの発達から個人的メディアにより「多様化した」のでなく多様である事が「認識された」ことでもあるようにも思われる。ここに誰よりも早く集合住宅という平準化が前提の「商品」として頭角を表したのが谷内田氏であるといえる。

今回、ぼくが拝見させていただいた集合住宅は、竣工年が90年代から近年竣工したものまで様々であったが、断面はもちろんのこと、平面形態も通常のものとは違う。ここでいう通常のものとはnLDKで表現される形式である。谷内田氏のつくる集合住宅のユニットは、ロフトや床下収納といった断面的操作が往々に含まれるため、通常使用として算出される床面積以上の利用可能性がある。
通常は駅からの近さなどの利便性、ペット可能や収納の多さなどで賃料が決定する。基本はnLDKである。それは市場との整合、または相対から選択されるが、これらのユニットはその付加価値ともいうべき要素が通常の決定要素を上回り賃料など定量的決定が不可能になっている。数々のデザイナーズ的住宅が一般の住宅よりかけ離れた値段になっていることはこのことと無関係ではないだろう。資本主義において、定量的ではないというのは、主観的であると同義であると言えるからだ。
このような集合住宅は客がつきにくいという点で「土地活用」というカテゴリーには不向きだという見方もある。そもそも集合住宅自体は、人に土地を貸す一つの手段として建築を媒介にすることで税金の対策であったり収入の補助ということにもなる。この税金の仕組みこそが集合住宅を乱立させる要因の一つであることも明らかではある。
つまり、「住むこと」からアパートの類いの集合住宅は端を発したわけではなく、資本主義化における「土地の成果物の一つ」として発信点がある以上、現時点での定量的決定要素と付加価値の関係性は崩れることがない。
しかし谷内田氏の集合住宅は定量的決定要素を無視したものではなく、ある範囲内においてその軸を収めながら付加価値を増大することに成功した結果として入居者という成果を出す。そこでは賃料に見合うものとして価値が認められているという事実だけが残る。
このような事実の過程を建築的、経済的に探るのが本文章群の目的でもある。