生きること。

生きているということ、いま、生きているということ。

谷川俊太郎氏の詩。極度の時間差を経て、言葉の豊かさに触れた。この詩を以前に見たのはいつだろうか。

詩。言葉という効力、豊かさを言葉によって発揮する羅列群。
言葉が持つ意味を意味付けるのが文脈であれば、詩の文脈はそれほどの強度を持たない。

音にする、音読するという行為を経ることでそれは文脈以上に身体の奥まで、意識の片隅にまで行き届く。

文章に触れることと詩に触れることは、海と空くらいの違いがある。構成する原子の成分は同じでも、状態が違い、人間の飛ぶことと泳ぐこと、感じることも違う。

詩は経験に近く、文章は理論である。それを言葉で表現するというところに詩の自律性がある。

文脈を持たないことが、言葉の意味を相手に委ねる。受け手は自らの経験を、意識を言葉一つひとつに投影することで「読む」。

何を感じるか、何を思うかは自由。それが豊かさとしての表現なのであれば、至極非効率で、圧倒的な交換不可能を孕む。

しかしそれは、最終的には個人に回収される存在として、的確な表現手段として在ることができる。

新しい歳を迎えて

意識を改革するべきなのかもしれない。
この一年を振り返ると、来年こそは自分は変わらなければならないという観念に襲われる。
27歳という年代が一般的にどういうものなのかはわからない。だが、ここで変えなければ、これから先の人生何も変わらないのではないかという念が意識の深いところにあるのは間違いない。もしかするとそれは、単なる思い込みかもしれないし、これから毎年思うかもしれない。

社会人になって三年が経とうとしている。この三年間、ぼくはいかに自律的に生きて来れたか。学生時代の何かに対する情熱を、今でいう自分に置き換えられているか、今のぼくでは答えられはしない。
それは、生まれもった社会的未熟さから来る環境への対応能力のなさなのかもしれない。仕事上、つまり社会的に求められるものへのハードルの高さとプレッシャーに押しつぶされ、思考停止の状態で生きてきている可能性もある。思考的に自由なのは学生であれば当たり前であるのに対して、社会の中での自由というのはルールを知り、自分に対しての影響を認識し、自分の意思を提出できるかというところにある。

その自分の意思がないと始まらない。あっても世界に提出しなければ意味はない。社会人という、人生を全うするための地盤は整い、幾分かの知識と経験は基礎として自分に埋め込まれているはずだ。
また、基礎を見直す機会もあるだろう。地盤が揺れる経験もするだろう。
しかし、いつまでも地盤ばかり耕していても芽は出ないし空間も生まれない。

天を仰ぎ、風を感じる。
今こそ、変わらなければならない。

・目標スケジュール設定のためのモチベーションについて

資格試験のモチベーションを上げるには方法は一つしかありません。
見据えた上での社会での結果、それを出すための自分の商品価値を上げると考えるしかない。
資格試験に合格すること、それ自体には何の意味ももたない。それを使えるか、持っている事のアドヴァンテージがどれだけあるか認識すること。だから、やたらめったら受ければいいものではないし、かといっていらないものでもない。
この認識、最近改めて考え直しました。
自分に必要な資格。あえて「今」ではなく「将来的に」と考えるようにします。将来的に必要であるということはつまり、今からでも早くは全くないからです。
将来的に再開発事業など都市計規模の建築、ランドスケープ事業に取り組みたい自分にとって、現在の自分がいかに小さいか。そして、大きな事業をとりまとめるために必要な知識がいかに足りないか。こんなことを記述する前にやりなさいといった声も聞こえます。
苦戦している【ファイナンシャル・プランナー】。一人の人間のライフプランを作成するために必要な知識です。私の関わる土地は一般の人にとっては大きな買い物であり、かつ社会的に大きな意味をもつものに発展する可能性のある事象でもあります。森ビル株式会社が六本木ヒルズを建築の形に昇華するまでどれだけの年月を要し、どれだけ多くの地権者との折衝があったか。少し考えるだけでも膨大な利害関係が孕んでいたかが容易に想像できる。相手のことを考えるには、背景にあるその人の人生、特にライフプランを考えなければ、うまく調整はできまいと考えます。
また、それに付随してくる土地の活用に必要な【不動産コンサルティング技能士】。実務的に行うのは宅地建物取引主任者ではありますが、大きく広い視野でみるためにはこの知識は最低限必要です。売るのか、何か建てるのか、そのまま使うのか。建築以前の問題は大きく、そして深い。
建築、土地を見る上でも【不動産鑑定士】や【ホームインスペクター】には少し興味あります。やることなくなったら是非したい。

自分の事業テリトリーではここらへんまでしか考えていません。というのも、設計や工事は誰かに任せます。自分一人では絶対にできない。パートナーとして自分のプロフェッションを一刻も早く確立したいです。

ある再開発事業のスキームをおさらいしてみると、その他にも、SPC、REITへの理解、分譲マンション、賃貸マンション、テナントのマーケティングや等価交換、土地区画整理事業などが必要なようです。
行政、民間との契約行為の塊となる再開発、とってもおもしろいんじゃないかと思うのですが、まだまだ自分には足りないものが多すぎるようです。

個人の確定申告が読めない奴に法人の書類が読めるわけがない。個人との交渉ができない奴に法人間のとりまとめができるわけがない。知識だけでなく、経験もしていかないとです。

・ふとしたきっかけからの自己分析

自分の趣味は料理である。特に、野外での料理が一番好きだ。ふと、今日のバーベキューからそんなことを考えることになった。

自然の中で過ごすことは幼少のころから自然に自分の中にあったことだった。木の香り、湿った地面の感触、葉と雨音の共鳴。それは今でも都市の中にあれば、ぼくの懐かしい感情を思い出させる。
それもあってかぼくは、環境、地球に関する仕事に就こうと考えた時期があった。思いつくものは環境省くらいしかなかった。地球といったら物理であって、自然現象の研究職しかない。細かいポイントをつくようなものはなく、理論一辺倒。大学も偏差値が高すぎるというところがあった。
村上龍の「13歳のハローワーク」で森林の関する仕事を見つけたのはいいものの、幅の効かない印象があったことや、森林を保全するというところに特に魅力を感じれなかったのが本音である。
そこでぼくの興味は都市にいくことになる。この日本の中で生きるということしか考えていなかったぼくは、都市を考える事がつまるところ自然を、地球を考えるということになるのではないだろうか、と。
それを今日また思い出した。というのも、違和感、自分に考え方の延長上に今がないからだと思う。もちろん、建築が好きだ。周りには気持悪いと言われるくらいである。だがそれはおそらく、大学で培ったものであり、かつ、付属的に自分に興味のあったものなのであろう。趣味に過ぎないと言えばそうなってしまうだろう。

建築、都市における環境とは必ずしも自然との共生がテーマではない。京都議定書からの政治的環境問題勃発を節目に建築における環境問題はエネルギーというテーマにすり替わる。事業所における二酸化炭素発生の低下をトップランナーを定めて低減。ソーラーエネルギーなど建築の付属品としての自然燃料での発電。間接的に地球環境という漠然とした問題に挑む。それは、都市化という自然には二律背反する事象にバッファーを差し込むようなテーマである。

ランドスケープ。ぼくに建築と都市の間に存在する緩衝空間に最も関心があるのは偶然ではない。そこでのアクティビティが自分も好きであるし、そのアクティビティ自体はその空間を構築するものの一つである。しかしながら、自然という環境に慣れ過ぎた自分にとって空間における人工物は存在感が強すぎるようだ。絶対的に自然は模倣できるものではない。メタファーであっても、アナロジーであっても、人工物は人工物、建築は建築だ。そこでのアクティビティは附属的でしかない。しかし、自然への郷愁というものが人にあるのであれば、そこへと向かう誘いを設計するということはできるのかもしれない。

自然という超越した事象へと誘うということ。それは空間そのものであるのだろう。

・2012.5.1

いま、仕事をしだして丸二年。
思うことがいろいろある。プライベートも含め、ここ日本で生きる意味は何だろう、と。
もちろん、ぼくはここ日本で生まれて、26年間生きてきた。国家、経済ルール、そして幸せの定義まで植えつけられてきた。
それが自然な生き方なのはわかっている。それがなぜ自然なのかは日本人の大半がそうしているから。生きるために働き、働くために生きる。その相互の運動の繰り返しによって人生は構成されている。
ヨーロッパの人はただ生きるために働き、余暇を大切にして、日本人とは全く違う豊かな人生を送っているというよくある現実逃避的な文言はここでは関係ない。どちらにしろ、日本では日本の生き方というのがあるのだと思う。

問題は、その生き方になぜ従わなければならないのか、ということだ。
サラリーマンであろうとなかろうと、日本の構造が同じ以上、立場や責任やは同じ核に向かって働く。日本という構造の中で最も生きやすい生き方がサラリーマンなのであって、税制を初めスケールメリットがある方がアドバンテージがあるという社会構造の時点でルールは決定されているようなものだ。
この従前のコンテクストに従った生き方をしなければならない必然性に疑いがある。
いま、世間で言われている自由とは、社会ルールの上での自由であって、その自由に触れることは、所詮はルールの上。
I was born.私は生まれた。この受動態の文が全てを物語っているのかもしれない。日本で生まれ、日本で育ってきたという自分で決めていない、自分における既成概念。ここから全ては始まる。場所におけるルール、歴史。
人間は遺伝と環境によって構成されていくという。家系、友人、教育、仕事。人生のロールモデルをみつけ、繰り返す。少し変えてみる。そうやって成功したり失敗していく。しかしそもそも、である。
ロールモデルは限られた知識の範囲でしかない。そこで完全に何かの枠組みに嵌る。どこかで誰かがつくったものでしかない。


だからといっていきなり映画みたいにはいかない。言語も職も、金もモチベーションですら。枠組の中で生きることほどストレスフルでかつ楽なこともないのかもしれない。その二つは相入れないからこそ互いに充足する。人生は二つなんて考え方、誰が作ったんだろ。
本当の自由は仕事だプライベートだ言ってるうちにはないのかもな。

・いま

現在、今までで最高に自分に合うお客さんと物を作っている。といってもそこに建築的なイデオロギーやコンセプチュアルな会話があるわけではない。提携している建築界でも有名な建築家とセッションしているわけでもない。でもそこには、ものをこだわりを持って作り上げていく最高に楽しい時間がある。


それは結局、客観的に見ると建築的なレベルの低い次元に位置しているのかもしれない。デザインをかじった程度でしかないぼくと、素人のお客さん。雑誌に出るまでの建築ができるわけでもないだろう。決して自虐的な意味ではなく。でも社会人2年目になったばかりでかつ少しデザインに興味のあるぼくと、今必要に迫られて建築を思考しているお客さんが出会ってしまった一回きりの物語だ。ぼくにできることは精一杯の仕事をお客さんにすること。完結した人間はいない。完結した評価などない。建築的なコンテクストでは評価されることに特に大きな意味はないかもしれない。それはどちらでもいいし、結果論。
でも一つだけ言える事は仕事をしている側も一緒に考えている人も、最高のパートナーに出会い、最高のパフォーマンスを発揮して建築をつくり、街を作っていってほしい。それは個人的な意味でも社会的な意味でも必ず人を豊かにする。資本主義に乗るだけの目的では決して今を乗り越えるのは無理だ。

とりわけいまぼくは、目の前の仕事以外のことを考える事をやめている。10年後どうなりたいか、30年後どうなっていたいか。そんなことを考えていて足元をみないことからは何も生まれない。未来を思考する時間など今のぼくには全くない。というか、自分の中でもう決まっているのかもしれない。だからこそ、今に集中すること、それが今のぼくの課題で、かつ未来を決める。

方向修正など、そのときにやればよい。そのときが来ればやればよい。

・facebook

フェイスブックに関する物語を読み、見た。
ぼくの読んだ本はエデュアルド視点で描かれ、映画ではマーク視点。映画は数十分に収めるためか、少し急ぎ足な展開方法ではあったが、書物の方を読んでいれば構成が変化しても伝える事の本質は変わらないように思えた。
現在、史上最年少の億万長者であり、かつ第二のビル・ゲイツであると言われているマーク・ザッカーバーグのサクセスストーリーであるようにも観客は感じる事はできるが、かつての友人であったエデュアルド・サベリンはマークに騙されて共同経営者から外されたとしてマークを起訴、ハーバードの上級生である起業家はフェイスブックのアイデアを盗まれたと起訴。その人間模様がこの物語の芯をなす。

内容はともかく、これは観客に対しての提起であろう。誰が悪いなどということはここでははっきりしない。ただ物語上の完結はある。それだけだ。

マークというギークをビジネスに持ち込むための危険要素としての一面を垣間みた。ギークは、コードを書く。それを広めるために資本家がいる。これは描き方が全てではあるが、マーク以外の人物(ショーンを除く)は全て交換可能であるようにも思える。少なくともマークの目からするとビル・ゲイツとショーン以外は描かれる情報が少なすぎて「そうなっても仕方ない」という感覚さえも抱く。マーク自体は完結した自律した人間性をもち、その持ちうる能力を資本主義に乗せるだけの力はなくともプログラムの意味での推進力は抜群であり、「誰かが」そこまで連れて行ってくれるだけでいいのだ。この見方には賛否両論あるだろうが、現実問題、「その他」になってしまった者にだけはなってはいけないという警告であるようにも読めた。

投資家/プロデューサーなど呼称はいくらでもあるが、資本とコンテンツを結ぶその役割にはプロセスと結果(成果物)を直接的には結びつけない大きな落とし穴があり、それを飛び越えることすら困難である。ぼくの立場上、エデュアルドだけにはなってはいけない。

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